1.2009 「moderato」

姉の影響を受け、ピアノ一筋の生活を送ってきた瑞希。でも、本当にこのままでいいのか。ある日家を飛び出した瑞希は、砂浜で手紙を見つけー。

どうしても右手の薬指がうまく鍵盤を叩けない。曲の出だし、一番最初の音なのに、風邪を引いて喉が腫れた時の、かすれた声のような音になってしまう。

 トルコ行進曲の一小節目。ファのシャープとソがタイで繋がっている。ファのシャープはソの飾りだ。アクセサリーなのだから、ファのシャープを弾かないで、ソの一音だけ出しても曲として別に支障はない。でも、ファのシャープを叩くことで曲に軽さが出る。色鮮やかになる。

 瑞希は電子ピアノの電源を切り、バタンとカバーをやや乱暴に閉めた。

 ランドセルの中から、青いイルカのキーホルダーが付いた家の鍵を取り出す。

 帽子かけにかかっている、紺のリボンが巻かれた麦藁帽子をかぶる。

部屋を出ようとしてふと思いつき、勉強机の上に置かれた、薄ピンク色のペンギンが付いた自転車の鍵を掴んだ。

 壁にかかっているシンプルなデザインの時計の針が、三時三十五分を指していた。四時から週に二回通っているピアノのレッスンがある。教室は、自転車で行けば家から五分もかからない所にあるマンションだ。普段なら、もうそろそろ宿題を確認したり、教本を鞄に入れたりと支度を始めている。

 いいんだ。今日はレッスン行かないんだから。

瑞希はすっと深呼吸して心を落ち着かせると、リビングでテレビを観ている母親に気づかれないように、こっそり家を出た。

肩までかかる栗色の髪が向かい風に当てられて後ろになびく。首筋にぺたりと張り付かなくて気持ちいい。家を出てからずっと、一方通行の道路を進んでいるから、周りに遮るものが何もなく、夏の太陽の日差しがじりじりと直接身体に当たる。焼けるなあ、瑞希はぼんやりとそう思った。そして行く先がゆるやかな上りの勾配になっているのを確認し、気合を入れて自転車のペダルを踏み込んだ。

赤茶色やクリーム色のオシャレな一軒家が並ぶ静かな住宅地を抜けて、この坂を上りきれば海に出る。

家から自転車で十五分程の所にある海は、十二年間暮らしてきたこの街で一番好きな場所だった。

と、その時後ろからよく通る声が自分を呼んだ。

「おーい、瑞希ー」

キキーッ。

瑞希が慌てて自転車をその場に止めて振り返ると、同じクラスの北浦望と中村隆がこっちに向かって手を振っているのが見えた。二人ともTシャツに半ズボン、サンダルという服装で、バケツやスコップを手に持っていた。

「海、行くのー?」

望に訊かれ、瑞希は言うべきか少しためらったが、

「うーん。ピアノさぼっちゃった」

口からすんなりと言葉が出てきてしまった。

「うちらも海で遊ぼうかと思ってさ」

望は瑞希の返答を聞くや否や走り出し、あっという間に近寄って来て、

「中村ー。自転車押すのは男の役目」

と、後ろで一人マイペースに歩いている隆に向かって怒鳴った。

「へーへー」

隆は面倒くさそうに答えると、よたよたと走って来て瑞希の自転車を後ろから押してくれた。

瑞希は望と隆をちらちら見て、

「二人で、海で遊ぶつもりだったの?」

この二人の組み合わせを不思議に思って訊ねた。

望は普段から女子よりも男子と遊ぶことが多いが、いつも大勢でサッカーや野球、バスケなどのスポーツをしていて、誰かと二人だけで遊ぶところは見たことがなかった。

もしかして、と一瞬瑞希は考えた。

が、

「まーさか。だらちゃんの中村と二人で遊んで何が面白いの」

「笹島さん、変な誤解しないでね。哲也達が算数の再テストくらっちゃって、俺達が先に来ただけだから」

さっきまで校庭でバスケやってたんだ、と二人して瑞希の問いにすぐさま返答する。

望が隆のことをだらちゃんと呼んだのは、隆がいつ何時もマイペースでだらだらしているように見えるからだ。授業中や空き時間によく寝ているのはクラスでは承知の事実だった。隆を形容するのに、「だるい」とか「ばてている」といった言葉ほど似合うものはない。ショートカットで肌が浅黒く、背も高い方に位置し、また性格も、はきはきしていて活発な望の方がよっぽど男らしい。

「しっかし」

 と隆が瑞希と望を見比べて、

「俺は嬉しいよ。北浦にも女の友達はいたんだな。笹島さん、こいつ教育してやってくださいよー。来年中学行くのに、このままじゃオカマの道まっしぐら」

「うるっさい。あんたこそ、いつまでもクラゲみたいにふわふわしてちゃ、野球部入れないんじゃない」

ちょうどその時、二人の会話を横で聞きながら噴き出していた瑞希の前に、太陽の光を浴びた潮が白く輝き、波が静かに揺れている、一枚のカーテンのような海が前方に広がった。

辺りには誰もいない。

「あー。塩の匂いがする。久しぶりー」

望が目を輝かせてうーんと伸びをした。

「瑞希は今年、海来た?」

「ううん。これが初めて」

「あの時以来?」

「うん」

隆が怪訝そうに二人を見て訊いた。

「おまえら、前から仲いいの?」

「まあね。男には分かんないものだよ」

望は、瑞希、自転車この辺でいいんじゃない、と自転車を歩道の端に止めるよう瑞希に声をかけると、海だーっと叫びながら砂浜を駆けていった。

「何なんだよ、いきなり」

隆が噴き出して、

「ガキっすよね、笹島さん」

と瑞希に話しかけたが、

「海だ・・・」

瑞希は隆に笑いかけ、次の瞬間、海だーっと叫びながら望の真似をして砂浜を駆け下りた。

「えー!?」

後ろで隆が驚きの声を上げるのが聞こえたが、瑞希は無我夢中でそのまま海の浅瀬まで走って行き、振り返って叫んだ。

「のぞみー」

「なーにー?」

ふかふかの砂浜にダイブした望が顔も上げずに答える。

「ピアノさぼっちゃったー」

「うーん」

「あたし、あたしねー、やっぱり疲れちゃったー」

「うーん」

「いいかなー」

「いいよー」

「だめです」

と別の声―隆の声が二人の会話に挟まった。

「二人とも唐突すぎって。こっちの対応も考えて」

望の横に胡坐をかいて座った隆がそう言ったが、

「あんたは、黙ってて」

望のきつい口調に口をつぐんだ。

「また家出ー?」

「うーん」

「夜までいるのー?」

「分かんなーい。でもー、帰りたくなーい」

瑞希はそう答えると、お気に入りの、水玉模様のワンピースが濡れるのも構わずに、バシャバシャとその場を歩き回った。

まーた望に遇っちゃった。進歩がないな。

遠くに光る水平線を見つめて、瑞希は一年前と全く同じだと思った。

「家出って、あの笹島さんが?」

隆がパチパチと瞬きをした。

「あんなに真面目そうなのに?」

「だから言ったじゃん。男には分かんないって。女の子には色々あるんだよ。イメージだけで決めるな」

「・・・家出って海に来ることが?」

「かわいい家出でしょ。家出ってたって家の鍵持ってるんだから。小五の時も同じだった。あたしがおつかいの帰りに夕方の海を見て行こうと思ったら、ああやって遊んでた。今みたいに周りには誰もいなくて」

“あれー?笹島さん?遊んでるの?もう夕方だよ?”

“あ、北浦さん?いいのー。今、家出中なんだー”

「あの時もピアノで悩んでて、海に来てた」

そういえば、と隆が呟いた。

「・・・・笹島さんって去年の音楽会の時伴奏担当だった?」

「うん。一年の時からずっと。だから言ってた。クラスの子にピアノの悩みは話せない。音楽会の伴奏だってやりたい子たくさんいたのに、私がやることになった。言えないよって」

「でも、あの伴奏って先生が決めるんじゃなかったっけ?笹島さん、自分からやりたいって言ってないんならあんま気にしなくていいんじゃねーの?」

自分から伴奏に立候補して、その悩みを伴奏がやりたかった友達に打ち明けたら何か言われるかもしれないけどさ、と言う隆に、

「あーもー、分かってないな」

望がいらいらしながら首を横に振った。

「先生が決めるっていうのは、他の子が立候補するチャンスすらないってことなんだよ。あの子は特別。瑞希の場合は、一年の時から決められちゃってるからプレッシャーがあるんだよ」

「特別?」

「うん。名前聞いたことあるでしょ?笹島夏鈴って。瑞希のお姉ちゃんだよ」

服も手も足も、海水と砂でビシャビシャになった瑞希は動き回るのを止めて、段々と茜色に染まっていく空を見上げた。

海も空も何て広いんだろう。何でこんなにすっきりしているんだろう。

「瑞希ー」

と、後ろで望が叫ぶのが聞こえた。

「あっ、ごめーん」

すっかり望と隆のことを忘れていた。

ずいぶん長い間、一人ではしゃぎまわっていたことを反省して瑞希が謝ると、

「ううーん。そうじゃなくてー。ここに手紙が落ちてるんだけどー、これ瑞希のじゃなーい?」

望がそう言って、真四角の白い封筒を掲げるのが見える。

「ううーん。ちがーう」

瑞希は返事をしながら、濡れた足で熱い砂浜を一歩ずつ踏みしめ、二人のいる方へ

向かって行った。

「そこに落ちててさ」

隆が、自分達が座っている少し左の砂浜を指した。

「まだきれいだし、もしかして瑞希のかもしれないと思って」

瑞希は望から封筒を受け取って、しげしげと見つめた。

少しよれてはいるものの、確かに新しい。砂浜に置き去りにされてから、そんなに時間は経っていないだろうことが分かった。それと、

「ねえ?これ、開いてるよ?」

この封筒は糊付けされていなかった。中を見ると二枚の便箋が折りたたんで入っている。何気なくそれを取り出し、開いてみると『健二へ』と汚い字で書いてあるのが読めた。

「読んでもいいかな、これ」

瑞希が便箋を取り出したのを見て、二人は首をひねった。

「うーん、まあ、閉じてないから別に平気じゃね?」

「知り合いのっぽい?」

望の問いに、瑞希は首を横に振った。

「ううん、健二って人知ってる?」

二人ともノーだ。

瑞希が周囲を見回すと、来た時と同じように砂浜には三人以外誰もいなかった。夕日が三人を照らし、それぞれの影が背中の後ろにもう一人の自分を作っている。

ここで手紙を読もうとしているのを知っているのは、自分達とその影だけだ。

「そういや、哲也達はまだ再テストやってんのかよ?今四時半過ぎだぜ?」

「・・ねぇ、今気づいたんだけど、海に行ってるってうちら知らせたよね?」

「・・・・・・マジかよ、それ」

望と隆が乾いた笑い声を立てる中、瑞希は手にした便箋に目を落とした。

健二へ

 元気か?

 正直何から書けばいいのかさっぱりなんだけど、俺さ、東京の大学行くことにしたよ。

 そんなにすごいところじゃないけどさ。

東京って都会なのな。すげー高いビルとかたくさんあるし。家賃なんてうちの近所のアパートより全然高い。ドラマに出てきそうなきれいな人たくさん歩いてるし。

 大学受験と金稼ぎの為にこっち来て、もうすぐ一年になっちまった。やっと金が貯まって、いよいよこれから受験だと思ってこれを書いた。

 いまさらだけど、悪かった。おまえを俺と同じ高校に入れたこと。俺、ほんと無神経でさ、校長が俺の弟なら入れてくれるって聞いて、これで健二は進路に困らないなってそれだけ考えてたんだ。でも、おまえの希望とか意見とか何も訊かなかった。訊こうともしなかったよな。おまえに言われて初めて気づいた。ほんと、余計なお世話だったんだよな。悪かった。ごめん。

 もう俺の顔なんて見たくないと思ってるだろうけど、これだけ言っておきたかった。

追伸

正月に帰る。親父とおふくろによろしく。

                                    直樹 

 文字が滲んで見える。ポタッと追伸の追の文字に、丸い染みができた。

「瑞希?瑞希?大丈夫?」

 望の驚いた声が聞こえ、そして背中をさすってくれる。

 短い手紙だった。恋人に書いたラブレターでも、犯罪を匂わせるような怪しい手紙でもなかった。何てことのない内容だった。でも、読んでいる内にかーっと胸が熱くなって、心臓がドクドク鳴ってるのを自分でも感じた。

 また望に迷惑をかけてしまう、と心の隅で気づいたけれど、胸につっかえていたものが、わっと流れるように出てきてしまった。

 「・・・・んない。分かんない」

 「え?」

 「・・この人には、分からない。・・けん、健二の気持ちなんて」

 望と隆は顔を見合わせると、瑞希が持っていた便箋をさっと取り、顔を突き合わせて中身を読んだ。

何故、封もされていないこの手紙がここにあるのかは分からない。書き終わったけど、いざ手紙をポストに入れる気がしなくなったのか。

この手紙の主達がどういう環境で育ったのかも知らない。仲の良い家族だったのかどうかも。

けれど、健二と自分は一緒だと思った。

無神経にも程がある。進路の道まで兄が手を出すなんて。

 いまさら謝ったって遅い。その通り。本当に、本当にその通りだ。

過去を変えることは誰にも出来ないのだから。

 でも、

何て弟思いの良いお兄さんなんだろう。

 何でそんなできる人がこの人の兄だったんだろう。

 何で健二は、このできる人の弟になってしまったんだろう。

 「・・・・何で私のお姉ちゃんも、できる人だったんだろう」

 望と隆が自分を心配そうに見つめる中、瑞希は顔をクシャクシャにして呟いた。

 「・・・どうして私はお姉ちゃんの後に生まれたんだろう」

小学校に入学した当初、笹島夏鈴の三つ年下の妹と聞いて同級生はもちろん、学校の先生達も瑞希に注目した。

 夏鈴はそれほどの有名人だった。

 焦げ茶色のさらさらした髪に整った顔、白い肌、細い手足。

 その容姿も人を惹きつけたが、何と言っても彼女の名を広めたのは、ピアノだった。

 小学二年生の時に、島村楽器のピアノコンクールで銅賞。三年の時にエレーナ・リヒテル国際ピアノコンクールで五位という輝かしい結果を出した。この時は、家に新聞記者が取材に来た。この学校で一番、将来のピアニストに近い子だと皆が口を揃えて、誇らしげに語った。それが夏鈴だった。

 その夏鈴の妹。さぞかしこの娘もピアノをやってきたんだろうなという目で見られるのは当然。そういった目は最初、以前から夏鈴を知っている教師達からだけだったが、学校生活に慣れていくにつれ、同級生も笹島夏鈴の存在を知ることになる。

 ねぇねぇ、うちの学校にめちゃくちゃピアノがうまい子がいるんだって。

 コンクールで賞いくつも取ってるんだって。

 ほんと、あの子かわいいよねー。世の中不公平って言うけどこういうことだね。男子からも人気だし。

 低学年の内は―まだ夏鈴が同じ小学校に通っていた頃は、瑞希もそこまで苦痛を感じることはなかった。音楽会の伴奏を任されるのは嬉しかったし、実際自分より上手に弾ける子もクラスにはいなかった。現在は違うが、自分も姉と同じピアノ教室に通っているのだ。そこへ行く度、初老のおばあちゃん講師にしごかれている。遊びで習っているという感覚は昔から無かった。

 しかし瑞希が高学年に入り、姉が小学校を卒業してからは、何かが変わった。これは、パチンと目が覚めた感覚に近かった。何がきっかけだったのかは分からない。そもそもきっかけなんて無かったのかもしれない。

低学年の時は何も考えずに練習していたピアノが段々嫌になり、とうとう五年生のある日宿題をやっていかなかった。そして、その回数が少しずつ増えていき、ある日母親にばれた。

 「瑞希、あんた最近ピアノ弾いてないわよね?」

 「・・・弾いてるよ」

 「嘘でしょう、全然音が聞こえないもの。ここ最近まともに練習してないのは分かってるのよ。月謝払う時に先生から聴いたわ。いいかげんになさい。タダで習わせているんじゃないんだから」

 「ごめんなさい!」

 口から出た言葉とは裏腹に、瑞希は家を飛び出した。

我慢の限界だった。

家でもクラスでもピアノ中心の生活。でも本当にそうなのは姉であって自分じゃない。自分はおまけと一緒だ。中途半端。その言葉が瑞希そのものだった。

私はお姉ちゃんと違うのに。ピアノはお姉ちゃんだけで十分じゃないか。

家を飛び出して、走って走って、無我夢中で海を目指し、その勢いのまま砂浜を通り過ぎて浅瀬まで突っ込んだ。

 「お母さんの馬鹿―っ。お姉ちゃんの馬鹿―っ」

 涙が次から次へと流れ、しかし、その状態のままでいることが楽だった。

 しばらくそうやって顔をグシャグシャにして泣いていると、クーラーの冷気が頭の中を通り抜けていくようで、少し落ち着いた。

ちょうどその時、後ろから声がかけられた。

「あれー?笹島さん?遊んでるの?もう夕方だよ」

振り向くと隣のクラスの北浦望だった。話したことは無いが人数の少ない学校だ、顔は知っている。

「・・・・・・あ、北浦さん?いいのー。今、家出中なんだー」

やけになっていたのか、何も考えずにさらっと言い、ありがとう、と笑って返事をすると、何故か望は瑞希の隣までやって来て、

「満潮って言葉知ってる?」

人なつこい笑顔で問いかけた。

瑞希がきょとんとしてううん、と首を横に振ると、

「潮が満ちて、ここ全部が海になることだよ。毎日じゃないけど時々なるんだ」

「今日も?」

ドキッとして瑞希が訊くと、

「うん、今日は満潮になる日だから、いつまでもここにいると危ないよ。暗くなるし」

「・・・そうなんだ。でも帰りたくないな・・」

家に帰って母親や姉の顔を見ると思うと憂鬱だった。

「家出中だから?」

望が面白そうに訊いた。

「そう、家出中」

「ふうん。でもさ、ここに落ちてるのは家の鍵じゃない?」

そう言うと、望は掌に乗せたイルカのキーホルダー付きの鍵を見せた。

「・・ありがと」

きまり悪そうに受け取る瑞希を見て、望は嬉しそうな顔をした。

「ふーん。笹島さんでも家出なんてするんだね」

「・・笹島さんじゃなくて瑞希でいいよ」

「じゃあ瑞希。あたしは安心したよ。瑞希が人間ぽくて」

「・・・・何、それ」

「だってかわいいじゃん。女の子っぽいし、ピアノうまいし。欠点なんか無さそうに見える。あ、望でいいから」

「・・・うまくないよ。うまいのはお姉ちゃんだけ」

「まーた。夏鈴さんだっけ?有名だよね?どんな人?」

「・・・ぼーっとしてる」

「え?」

「ピアノの練習してない時は、空気が抜けた自転車のタイヤみたいになってる」

「タ、タイヤ?」

望が噴き出した。

自分でも驚くほど、口からするすると言葉が出てきた。

「テレビ観てても途中で寝たりするし。アルツハイマーなんだよ。・・・よく、自分が何をしようとするのか忘れて私に訊く。学校の宿題もしょっちゅう忘れるし、前日の夜になって、明日の遠足の準備する。リュックって押入れだっけー?って。一人暮らししたら一週間で大家さんに追い出されると思う。家賃の払い忘れで」

望がお腹を二つ折りにして、ひーひー言っている。

「学校のアイドルも家では普通なんだね。良いお姉さんじゃん」

「・・・だから困るんだよ。憎めない」

憎めない。家で姉を見ていると憎む気力も失くす。

そうなのだ。結局どれだけ言っても、うじうじ悩んでも心から姉を憎めない。

ピアノだって。心の底から嫌いなわけじゃない。初めて一曲通して弾けた時は嬉しい。だから困るんだ。中途半端で。

「じゃあ、困ったらうちに言って。何でも聴くから。いつでも行くから」

望が笑って言った。

「あたし、そう言ったじゃん。いいんだよ、瑞希は瑞希なんだから」

「そーそー。ほんと、笹島さん真面目に考えすぎだって。俺、母ちゃんに兄貴といつも比べられるけど気にしたことないし」

隆も、まだ俺ら小学生なんだし、と意味の分からない慰めをしてくれた。

「じゃあ」

と、ふと思いついて瑞希は言った。

「今日・・望の家に行ってもいい?」

「いいよ。でも、あそこ」

望は、自転車が置いてある歩道を指差した。

そこには夏鈴と母親が立っていた。微笑んでいる。

「・・・・・・・ほんとにむかつく」

去年は望に送られ家に帰った。家に帰ると、お母さんが走って来て、きつく抱きしめられた。警察に電話しようかと思ったわ、と目を赤くして言われ、悔しかったが瑞希も泣いてしまった。

「家に帰っても、練習さぼったこと謝らないから」

瑞希は母親と姉を睨みつけながらぼそっと言った。

「いいんじゃない、それで」

「反抗するのも子供の仕事だって、テレビで言ってたぜ」

二人も立ち上がり身体についた砂を落とした。

瑞希は望が握っていた手紙を抜き取った。これは去年は無かった物だ。

「・・・・これ、もらってもいい?」

「え?うん。・・・でもどうするの?」

 望が訝しげに訊いた。

 「お姉ちゃんに読ませる」

 二人が噴き出した。

 茜色の空が段々紺色へと変わっていくのと同時に、少しずつ身体が冷えていく。

 波が立てた風が三人の髪をくすぐり、潮の匂いが辺り一面に広がった。

 空にほとんど雲が浮かんでいなかったから明日も晴れるだろう。

 後二週間もすれば長い夏休みだ。

 瑞希は夏鈴に向かってべーっと舌を出した。

 海に行って、泣いて、望に慰められて、去年と何も変わらないのに、何かが少し変わった気がした。

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