2.2011 「パラソル」

最高の教師になる。それがあたしの夢だー。ひたすら自分の目標に向かって突き進んでいた麗美。ある日、家庭教師のアルバイトで出会った惣介のトラブルを知りー。

プロローグ 

物心ついた時からよく、周りの友達に言われた。

 「親が貿易会社の社長で、実家が恵比寿の一軒家? 姉とは十も年の差がある?」

そりゃ、とそこで何人かが顔を見合わせ、うんうんと首を縦に振る。

「クイーンだわ」

「たっぷりかわいがられた訳ね」

プリンセスじゃなくてクイーン。愛らしいお姫様じゃなくて、王様と供に国を動かす実力者。女王は姫より権力が上だ。でも、あたしだって女なんだから、どっちかって言うとプリンセスがいい。

 パソコンで調べたら、恵比寿は今年住みたい街ランキングの五位にランクインしていた。

一位はここ何年かずっと吉祥寺だ。新旧両方ある雰囲気が人気の理由らしい。

あたしは憮然として、ぼそっと呟く。

 「悪かったね」

 自分のことをかわいいとか、優しいとか、儚げだとか、他人を癒す存在だとか思ったことは、残念なことに一度もない。ふわふわ、きらきらした、いわゆる「女の子」ではないとは自覚している。性格はマジで男っぽい。

 「あ、ごめん。傷ついた?」

 その発言自体が無神経だってことに、こいつは気づいているんだろうか。

「でも、レミは美人だから良いよね。ホント、女王様の風格ありって感じ」

「そうそう、ホントの美人だから、多少きつく見えても似合うよね」

「おまえ、黙ってればミスコンで優勝できるんじゃねぇの?」

勝手に言ってろ。

あたしの耳は実に都合よくできている。耳の穴と外界の狭間には厚手のカーテンが掛かっていて、気持ちの良い言葉はそよ風の様にするりとそこを抜け、逆に聞きたくない言葉は向かい風のごとく押し返す。一日の大半をおしゃべりで埋め尽くす女子学生は、ちゃんと心に留める言葉を選ばないと、頭の中がごちゃごちゃになってしまう。

「レミが教師なんて、生徒に好かれるか嫌われるかの二パターンしかないね」

一人に言われ、そう?と首をかしげた。好かれるのは構わないが、嫌われると面倒そうだ。

 「てか、子供苦手なんでしょ?よくそれで教師になろうと思ったね」

 別の一人がしみじみと、あたしのことを全て解っているかのように言う。あたしの何を知っているんだろうか。

 「いけない?」

 苦手なものは克服すればいい。今までだって、他の事だってそうしてきた。他人の尺度は気にしない。精一杯やって、自分にとって一番だと思う形に成る。人生は一回しかない。その時その時の自分が最高だと思えれば良い。

 来月、あたしは大学三年生になる。年は21になる。大学生活の半分が過ぎた。勉強している国際教養学科と教職で、詰め詰めだった時間割にも少し空きができた。入っている放送研究会では、自分達で作ったニュース番組のアナウンサーを引き受けるという大仕事をした。以前より滑舌は良くなったと思う。ウインドウショッピングの回数を増やしたから、それぞれのブランドの特色や、バーゲンの時季も大体把握した。買い物の失敗は、以前に比べて大分少なくなった。充実した学生生活を送っていると、自分では満足している。

 常に自分を磨くこと。これが生涯におけるあたしのモットーだ。

 次は苦手を克服しなければ。今月一杯で大学に入ってから二年間続けてきたパン屋のアルバイトを辞める。来月の頭に次のバイト先を面接する予定だ。

去年の秋に父方の祖母は亡くなった。二週間前にあった同窓会で、久しぶりに再会した中学の友達はお母さんになっていた。地元でよく会う高校の友達は化粧品会社の研究員として来月から働き始める。うかうかしていられない。

あの先生に会えてよかった。そう言われる、その学校で一番の最高の教師になる。それがあたしの夢だ。

目覚めたら、七時半だった。

 あれ?まだ空暗いよな・・。

 そう思って惣介は再び目を閉じたが、その瞬間あることを思い出し跳ね起きた。

 そうだ、このカーテン・・・。また、やっちゃった。

 惣介が寝ているベッドは窓際に置かれている。その窓には、薄緑で描かれた葉っぱ模様の厚いカーテンが掛かっていた。三か月前に母親の優花が買ってきてくれた物だ。

 「惣ちゃんのベッドは、窓からの隙間風がぴゅーぴゅー入ってくるから寒いと思って」

 そう言って、今まで掛かっていたレースのカーテンを外し、代わりに防寒用のこのカーテンを掛けてくれたのだ。これで、もう一枚以前から掛かっている水色の車が描かれたカーテンと合わせて、隙間風はなくなった。暖かい。

ところが、逆に困ったことがあった。外からの光を完全に遮断するので、朝になってもまだ夜なのかと錯覚してしまう。起きれない。もう初夏に近い五月に入ったのだから、防寒用は外すべきなのだが、優花は忘れているようだった。

また、佐々木に怒られる・・。

惣介の頭の中でちらっと彼女の怒った顔が浮かんだが、それを振り払うように急いで着替え、ランドセルを掴んだ。洗面所は、惣介の部屋がある二階と一階の両方にある。下で顔を洗って、食パンでも口に挟んで出て行けばいい。

佐々木碧は登校班のリーダーだ。色白で薄茶色の眼鏡をかけている。毎日五分ほど遅れてくる惣介に、また、あんた?と開口一番に睨まれる。俺もだけど、こいつも目が細いからカマキリみたいだ、と惣介は密かにカマキリリーダーと名づけている。

 「あれ?惣介、もう八時だけど?学校は?」

 玄関で運動靴に足を突っかけていると、後ろから姉の菜月に声を掛けられた。

 肩まである栗色のウエーブがかった髪を、丁寧に櫛で梳かしている。制服には元々付いていない、自分で買った赤チェックのリボンの紐を口にくわえていた。

菜月ももう家を出なければいけない時間のはずだが、この悠長さはどこから来ているのだろうか。

「大丈夫、大丈夫。チャリ飛ばせば十分で着くもん」

惣介の表情を読み取ったらしい。もごもごと言い訳した。

しかし彼女が通っている中学は、自転車を使っても最低二十分はかかる。十分は大げさだ。この時間にルーズなところは、惣介の家族共通の欠点である。

 ちなみに、母親の優花はまだ布団の中で熟睡している。書家である優花は家で書道教室を開いているのだが、その教室の経理やら生徒の宿題やらで忙しい日は、夜遅くまで家事と供にそれらの仕事に追われていて、翌朝は起きられないことが多い。

 「分かってるよ」

 まさに今、家を出るところなのだ。見れば分かるだろ。惣介がしかめ面でドアを開けると、後ろから止めの一言が突き刺さった。

 「もう登校班、先に行ってるんじゃない?」

 後ろ手にバタンとドアを閉めた瞬間、ああそうだ、と惣介は脱力した。登校班の集合時間は七時半。もう八時を回っている。集合場所にはもう誰一人いないはずだ。・・・ゆっくり行こう。

 本来なら、集合時間に来ていない生徒の家には、付き添いの保護者から電話が掛かってくる。しかし、惣介の場合二週間に一度の割合で集合時間にいないので、暗黙の了解としてもう電話は掛かってこなくなった。

 惣介の家が建っている通りを、少し歩いて右に曲がると車道に出る。そこからまっすぐ左方向に進んで行くと、交差点と青いペンキで塗られた歩道橋が見える。惣介はいつもこの歩道橋を渡って学校に行くが、疲れていたり急いでいない時は階段を上るのが嫌なので横断歩道を使う。時間が遅いせいか、辺りに小学生の姿は見えない。

 歩道橋を渡り終わると、ファミリーレストランの駐車場を警備する警備員が立っている。いつも目が合うと、にっと笑ってくれる気の良いおじいちゃんだ。

 「今日も寝坊か?」

 「うん。登校班先行ったから、ゆっくり行く」

 惣介がはにかみながら言うと、おじいちゃんはええ、ええと頷き、

 「次は気ぃつけぇや」

 と手を振ってにっと笑った。

 「行ってきます」

 なんだか励まされたような気持になった惣介は少し心が軽くなって、学校まで走って行った。

惣介の通う横浜市立港第一小学校は、他の公立小学校と少々変わっている。

 まず、チャイムが鳴らない。

 次に教室と教室の堺となる壁がない。

 時間割が毎日変わる。

 毎日の宿題が、これといってない。

 教室の床が、カーペット。

 黒板ではなく、ホワイトボード。

 ほうきとちりとりではなく、掃除機で掃除する。

 小学校のモデル校と認定されたこともある、新しいスタイルの小学校だった。

 「めっちゃ、ゆるい学校やなぁ」

 去年の冬、大阪から転校して来た橋本直輝は事あるごとに、そう呟くのが癖になっている。

 「チャイムが鳴らんなんて、学校やないやん」

 机に頬杖をついて、隣の席の柳川武彦に話しかけた直輝に、周りから反論が返る。

 「おまえ、まだ言ってんのかよ。いい加減慣れろ」

 「そうそう、しつこいぞ。大阪人」

 「だって、時間の間隔が分からんくなる。なあ、たけ」

 机の中から三時間目の算数の教科書を出していた、たけ、と呼ばれた少年が顔を上げた。

 色白でさらさらの茶髪、細身のたけは、スカートを履かせれば後ろから女子に間違われる容姿を持っている。たけも三ヶ月前に茨城から引っ越してきたばかりで、この学校にもこの土地にも慣れていない。

 「まあ・・でも、俺楽だから好きだけど。教室とかきれいだし」

 床に敷かれている緑色のカーペットに目を遣って、たけはぼそぼそと言った。

 茨城には、こんな〝みないち〟(港第一の略)みたいな近未来的な学校はないよ。たけはそう付け加え、

 「あ、俺今日当たる。てか宿題やってくるの忘れた」

 直輝、プリント見せてと青ざめた顔で頼んだ。

 その言葉を聞き、周りに集まっていた男子達は慌てて自分が宿題をやってきたかどうか確認し始めた。この小学校では一週間に一度の割合でしか宿題は出されないから、皆ついうっかり忘れてしまいがちだ。

 「やばっ。あったっけ?」

 「プリントだけだよな?」

 「つーか、たけ。直輝が宿題なんか真面目にやってくる訳ねーだろ」

 「アホ。俺、偉いからな。ちゃんとやってきたわ」

 そんな男子達の慌てぶりを遠めに見ていた女子達が、また焦ってるねぇ、とけたけた笑っていると、赤い上下のジャージを着た、まだ若い男が教室に入って来た。

 「うーすっ。やるぞー。まず、昨日出した文章問題のプリントの答え合わせから」

 色黒で真っ黒な短髪、太い眉、くりくりとした瞳を持った後藤裕二は惣介のクラスの担任だ。生徒達からは「〝なんでだろう〟のテツ」「鬼」「レッド」「熱血教師」と様々な呼び方をされているが、一番メジャーな呼び方は、赤いジャージから取った「ジャージャー」だ。身長は160もないくらい低いが、毎日着ている赤いジャージと、ハリのある話し方、ノリの良いところ、筋肉質でスポーツは大方何でもこなせる、また怒ると恐いので、威厳と存在感は十分にある。特に男子から人気だ。

 後十分で授業が終わるという頃、ふいに後藤が言った。

 「今日の放課後、先生の友達でスケボーのアマチュア全国大会まで出たことがある人が学校に来る。少し時間があるそうだから、スケボーについて教えてくれるかもしれない。もし興味ある奴いたら五時間目終わった後、運動場に来てくれ」

 言い終わった途端、教室中がざわめいた。

 すごい。大会?俺、行きたい。家にあるやつ持ってくればよかった。

 「すごいな」

 惣介の後ろに座っている原口が、つんつんと背中をつついて行くだろ?と目で訊いてきた。

 「ごめん。俺も行きたいけど、今日ちょっと用事あるんだ」

 今朝の寝坊といい、悪いことは同じ時期に重なるものだ。惣介はもちろん、用事よりスケボーに興味があった。家にも自分用のスケートボードを一台持っている。

しかし、スケボーの集まりに行くということは、人数の少ない状況で(女子はいないだろうし)直輝やたけと顔を合わせることになる。教室で先生が発表した時は一時騒然となるが、実際放課後運動場に来るのはごくわずかの男子だけだ。それもそれでなんだか気が重いのでまあ、いいかと思うことにした。

惣介が玄関で靴を履き替えていると、二、三人の男子生徒が駆けて来る足音と話し声が聞こえてきた。偶然辺りには生徒が他にいなかったので、彼らの話し声と足音は響き、惣介にもよく聞こえた。彼らは、惣介がいる下駄箱の隣の列に入って靴を履き替えている。下駄箱は140cmある惣介の身長より30cm程高いので、彼らの姿は惣介には見えない。

「じゃあ四時にヨークマートの前な」

「DSは?」

「もち」

「良兵ん家ってどこら辺だっけ?」

「ガソリンスタンドの方。坂、少し下った所」

彼らの会話を聞きながら惣介は突っ立ったままの状態で、良兵がDS持ってるなんて、と少し不思議な気持ちになった。あいつ、ゲームやるようになったんだ。

けれど、何はともあれ早く行って欲しいと思った。ランドセルに付いている鈴入りのサッカーボールが音を鳴らさないか、急に不安になった。惣介が少しでも今動けば、カラコロと辺りに響く鈴の音により、誰かが下駄箱の反対側に居ることに気づき、良兵達がこっちを覗くかもしれない。しかし、心のどこかでそれでもいいじゃないか、びくびくする必要はないし、むしろこっちから今出てってやろうか、と正反対の考えを持つ自分がいることに惣介は内心気づいた。

そうこうする内に下駄箱の向こう側で喋っていた彼らは、トタトタと小走りに門の方へ去って行った。惣介は小さく息を吐いた。肩の荷が下りた気分だった。実際肩は少し強張っていたらしい。ランドセルが急に重くなった。惣介はゆっくり門まで歩き始めた。

惣介の母親、優花は自分の子供達に勉強しなさいと、口うるさく言うことはしない。

優花の母親は穏やかな人で、自分のたった一人の娘である優花には、自由に伸び伸びと育って欲しいと思い、優花をあまり叱ることもなく彼女の好きなように育てた。惣介の母方の祖母に当たるこの人は、自分の青春時代を戦時中に過ごした。娘には自分の希望を託したところもある。惣介は何年か前の正月、彼女からお年玉をもらった時にそんな話を聞いたことがあった。

おかげで優花は、周囲から見ても少し奔放すぎるくらい自由に育った。

塾に通うのは裕福な家の子供だけだったが、大抵の子供は学期が終わる度に、担任から手渡される成績表を重要視していた。「真面目に勉強する方が格好悪い」という信念の、〝不良〟〝レディース〟〝ヤンキー〟と呼ばれる人達もまだ登場し始めという頃だ。そんな中、優花は毎日放課後運動場で友達と遊び、週何日か習字教室に行き、家に帰ってもせいぜい宿題ぐらいしか勉強はしなかったにも関わらず、成績は常にクラスの上位だった。

現在中学二年生の惣介の姉、菜月も今まで塾など学校以外の場所で勉強したことはない。惣介は彼女が家で宿題をしているところすら、ほとんど見たことないが、夜遅くまで部屋の電気が点いていることも最近は多いので、ちゃんと時間を作って勉強しているのかもしれない。

それなのに。

優花に言われた時、惣介はなんだか釈然としなかった。母の昔話を聞き、姉を間近で見てきたからこそ、プライドを傷つけられた気がした。

「ただいまー」

惣介が玄関で靴を脱いでいると、焼おにぎりの香ばしい匂いがした。台所でごそごそ動く人の気配もする。

「腹減ったー。焼きおにぎり食べてんの?俺にもちょうだい」

ランドセルを居間のソファに放り投げ、テーブルの上に三つ並んだ焼おにぎりの皿から一つを手で掴んだ。

「あちっ」

「こら!惣ちゃん!手を洗って来なさい!」

 台所で麦茶をコップに注いでいた優花は早足で戻って来ると、ばしっと遠慮なしに惣介の腕を叩いた。分かったよ、いってーなー、と惣介は渋々焼きおにぎりを皿に戻し、洗面所に向かう。

 優花は白いハイネックに、ピンク色の花柄のロングスカートという服装で、肩まであるふわふわの焦げ茶色の髪は、クリップで品良く一つにまとめられていた。

 週に二回の書道教室がない日に、優花が外行きの服装をしているのは珍しいことだ。

 「惣ちゃん。十五分ぐらいしたら下に降りて来てね」

 「うーん」

 洗面所でうがいをしていると、優花から声を掛けられた。居間に戻って再び焼きおにぎりを掴むと、ミッキーマウスの時計は三時四十五分を指している。

 惣介がテーブルの上をまじまじと見ると、レシートや領収書、電卓、家計簿といった物が散乱していた。

 「もう来るんでしょ?こんなに散らかってていいの?」

 「だから急いでやってるんじゃない」

 どうやら勘に触ったようだった。優花は右手にボールペン、左手に焼きおにぎりを持ち電卓の数字を睨んでいる。

 「惣ちゃんこそ、ランドセル上に置いて来なさいよ」

 子供みたいに向きになって言い返す優花に、はーいと惣介は返事した。客が来る十分前にごちゃごちゃと作業を行っている優花は、傍から見ていて要領が悪そうだが、家事や仕事で忙しく一分でも有効活用したい彼女らしい。

 惣介がランドセルを部屋の机に置いたところで、ピンポーンと呼び鈴が聞こえた。

 部屋のドアは開けっ放しなので、玄関から来客が入ってくる音や優花の声が聴こえてくる。

 「あら~、思ってたより若い方なのね。まだ学生さんかしら?」

 優花は、呼び鈴が鳴ってから客を迎え入れたこの十秒足らずの時間に、あの散らかっているテーブルを片付けたのだろうか。どうやって?ふと惣介は気になったが、

 「今お茶淹れるわね。冷たいのでいいかしら?」

 うきうきと客をもてなしている声が落ち着いているので、きっと居間の隣にある和室に一式置いて襖を閉めたのだろうと思った。惣介は、来客が今日自分の部屋に足を踏み入れるかどうか判断がつかなかった。もっときれいにしろとか言われるだろうか。机に置いたランドセルの中身を出そうかどうか迷っていると、階下から自分を呼ぶ声が聴こえた。

 「惣ちゃーん。家庭教師の先生、来たわよー」

 惣介は返事をして居間に向かった。

まず目に付いたのは、タータンチェックの赤紫のカーディガンだった。それは椅子に掛かっていて、その後ろに艶のあるストレートの黒髪と形の良い頭が見えた。かすかにグレープフルーツの匂いがした。

彼女はさっと立ち上がって、くるりと惣介の方を向いた。

「初めまして。高原麗美です」

 凛とした声で挨拶した彼女が、スケボーの集まりに行けなかった惣介の、『今日の用事』だった。

 一ヶ月前、四年生になったばかりの四月頭に、三年後には中学に入るから塾に通うか家庭教師に付いてもらうことは必須じゃないかと、惣介達の父親、章二が優花に助言した。現在滋賀県に単身赴任していて、二、三日という短い期間だが、月に一度惣介達の住んでいる横浜の家に帰って来る。そしてその際必ず子供の現状を優花に確認している。

幸運にも菜月は学校の勉強に苦労していない。しかし惣介は体育は好きだが、それ以外の科目は苦手な様子だということを優香が教え、じゃあ先手に打とうと章二が提案したのだ。

 すごい。

惣介が彼女を見て真っ先に感じたのは、圧倒的な存在感の強さだった。こんなにきれいな人を惣介は見たことがなかった。彼女は間違いなく〝美人〟の部類に入るだろう。

惣介をまっすぐ捉えたぱっちり二重の瞳、透き通るような白い肌は肩下まである黒髪の美しさを際立たせている。カーディガンに合うような、クリーム色のハイネックと下部に一本花柄のリボンが巻かれている茶色のスカートを優雅に着こなしている。テーブルの脇に置いてある小さなバーバリーの鞄と、玄関にあるブランド物であろう焦げ茶色の編み上げブーツは、彼女の裕福さをそれとなく物語っていた。

強そうだ。

麗美を前に立つ自分は、蛇に睨まれている蛙になった気分だった。

これは自分だけじゃない。彼女に初めて会った人は誰でも、ほんの一瞬そんな気持ちになる。それほどの強い個性、意志を持っていた。

この人に教えてもらうのか。惣介は美しさを通り越して、ぞくっとする恐ろしさのようなものを麗美に感じた。

長方形の部屋は、学習机と本棚、ベッド、クローゼットの四つで構成されていた。

ベッドの横には、お気に入りのディックブルーワーのスケートボードがある。

防寒用のカーテンやこのスケートボード、メロンの形をした貯金箱を見て麗美は、

 「緑、好き?」

 と訊いた。

 「うん」

 彼女が挨拶に来た日の一週間後、五月十日の月曜日に、惣介は初の授業を受けることになった。科目は英語と数学で、週二回九十分一科目というスケジュールで進められていく。時間は四時から五時半。初日の今日は英語だ。

 「先生、何歳?」

 ドアを開けるなり、部屋をじっくり観察し、突っ立ったまま動く気配のない麗美に惣介が訊ねた。自分の部屋を長いこと見られると、なんだか居心地が悪い。

 「二十一歳。・・・ねぇ、あれ好きなの?」

 小学生の惣介にとって、二十一という数字は大人なんだと思った。 

 ベッドの横の壁に、大きな一枚のポスターが貼ってあった。青い空と雄大なグランドキャニオンの写真だ。

 「うん。アメリカ好きなんだ」

 惣介は机の上にある棚から、一冊のアルバムを取って麗美に渡した。赤い表紙に金の文字でMemoriesと書かれている中々立派な物だ。

 「アメリカに行ったの?」

 麗美は目を丸くしてアルバムを開き、鞄を床に置いてベッドに腰掛けた。

 「一年の時に家族で旅行した」

 「へぇ、アメリカのどこに行ったの?」

 ゆっくりページをめくり、数々の写真にざっと目を通しながら麗美が訊いた。

 「なんとか州・・ロサンゼルス?」

 「ああ、カリフォルニアね」

 その後十五分程アルバムの写真について麗美は熱心に訊ね、惣介はそれに対して返事をした。行ったのは夏休みで一週間くらいだったと思う。母さんが途中で熱出して大変だった。お土産はT-シャツとか、帽子もだったかな。

そして、惣介が勉強に入らなくていいのかと少し不安に思ってきた頃、ようやく麗美は鞄からプリントを二枚取り出し、今日の宿題と言って惣介の机の上に置いた。

 「来週までにやっといてね。簡単だから」

 渡されたプリントには、りんごやクマや牛乳の絵が描いてあった。パズルのような物らしい。

 惣介は正直拍子抜けした。こんなもんか。それとも最初だからかな。

 ところが、木曜日に麗美の数学の授業を受けた時も何か物足りないものを感じた。その日は、自然数や負の数がどういうものか習った。この日は初日とは違い、さっさと授業に入った。惣介は緊張してたんだ、と思った。どうやら最初に会った時の印象が強すぎたらしい。実際はそんなに恐くないのかも。

 しかし、惣介の最初の予感は間違っていなかった。

二週間後の二十四日、この日は英語を教えてもらう日であり、惣介は宿題をやっておくのを忘れた。先週出された数学の宿題を終わらせるのに手間取って、そっちを土日で片付けた時には達成感に満ちていた。後十分で麗美が家に来るという時になって初めて、英語の宿題の存在を思い出した。内容は現在進行形に入ったところで、テキスト四ページ分の練習問題が課せられていた。

 「やってないの?」

 惣介が恐る恐る打ち明けると、麗美はじっと惣介の瞳を見つめ静かに口を開いた。

 「良い度胸してるじゃん」

 「あの、数学の宿題をやるのが大変で」

 ついうっかり忘れてました、すいませんと語尾の方は声が小さくなりつつも謝ると、じゃあと麗美は言った。

 「今やって」

 「え?今?」

 「宿題の、分からなかったところの見直しっていう時間に変えるから。でも、今日教える範囲を終わらせなきゃいけないから十分でやって。それともう一つ」

 十分と聞いて焦る惣介に、麗美は噛んで含めるように言った。

 「数学の宿題と英語の宿題は全くの別物よ。それは言い訳にならない」

 厳しい瞳に見つめられ、惣介は黙ってテキストを開いた。内心では彼女の言う通りだと思ったが、もう少し穏やかな言い方はできないかといらいらした。

 「ちょっとお手洗い借りるよ」

 麗美はそう言うと、鞄からハンカチを取り出し部屋を出て行った。

 惣介は少しほっとした。

麗美は教え上手だ。

 どんな言い方をすれば相手に上手く伝わるか、どんな手順を踏めば相手が迷わずに済むか、そのコツを完璧に掴んでいた。するすると頭に入っていく。そのおかげで、分からないまま飛ばした問題は一つとして無い。授業の進み具合は順調だ。

 「終わった?」

 惣介がふと顔を上げると、麗美が部屋に戻って来たところだった。ハンカチを鞄にしまってついでに、とリップクリームを塗っている。

 「後、ちょっと」

 残り二ページという進み具合を確認して、麗美はさらに課題を追加した。

 「それ、今日の宿題に追加してやってきて。後、来週単語テストやるから暗記してきてね」

 「追加って何ですか?」

 惣介が眉を寄せて訊き返すと、

 「今やってるのは先週出した宿題でしょ?たった十分かそこらじゃ頭に入らないだろうから、別の紙にもう一回来週までに解きなおして来て」

 「えっ?同じことを?」

 惣介は明らかに嫌だという表情を麗美に見せてしまったが、彼女はそんなこと気にも留めてない。さっさと鞄から、先生用のテキスト解答集を取り出した。

 「じゃ、頑張って勉強に励みたまえ、惣介君」

 そしてその日の分の勉強範囲が終わると、茶化すようにそう言って、テキストや筆箱をしまった。

 「・・・先生が励みたまえって言った」

惣介は目を丸くして麗美を見た。そしてはっとした表情になり、

「先生、今日宿題多いっス。次はちゃんとやってくるから、もう少し減らして頂けると!お願いしまっス」

駄目もとで頼んでみたが、麗美はにっこり笑って駄目よ、と言った。蛇の目だった。恐い。ドアに向かって歩き始めた麗美の背中に向かって、惣介はあかんべえをした。

「先生のケチ。頑固―」

「それ以上言うと、今度は罰ゲームやらせるわよ」

小さく呟いた声が、ばっちり聞こえてしまったらしい。振り返った麗美はにんまりと笑っている。何か恐ろしいものを感じた惣介は慌てて返事をした。

「はっ。すいません。もう二度と言いません。先生、今日もおキレイです」

それを聞いた麗美はくっくっくっと笑ってじゃあね、とひらひら片手を振り階段を降りて行った。魔女だ。そうに違いない。きっとこれからどこかの地下室に行って、怪しい薬を作るんだ。黒マントを羽織った麗美を想像した。とても似合っていた。惣介は自分の想像に吹き出した。

彼女が笑った顔を見るのは初めてだったので、少し親近感を持った。

「ねぇ、ママ。昨日買ってきたシュークリームってもう無かったっけ?」

冷蔵庫をバタンと閉める音がして、菜月が惣介達の座っているソファにやって来た。

テレビでは、ゲストを招いて料理を提供するという、バラエティ番組が映っていた。

「えっ?なっちゃん。今からそんなもの食べる気なの?」

優花が、もう十時回ってるのよ、と忠告する。風呂上りに、よくそんなものを食う気になるな、と惣介は呆れた。

「ううん、今は食べないけどさ」

菜月は慌てて首を横に振ると、不思議そうな表情で言った。

「明日、食べようと思って探したら無かったんだけど」

お茶を飲むついでに冷蔵庫の中を覘いたら、シュークリームの箱ごと無くなっていたと言う。

「嘘だろ」惣介は笑った。

「嘘じゃないって」

むきになって言い返す菜月に、優花がああ、と何かを思い出した表情をした。

「もしや」

「ごめーん。昼間、レミちゃんと食べちゃったの」

険しい表情をした菜月に、優花はパンと両手を合わせて謝った。

「またー?これで四回目ぐらいじゃない?もう、楽しみにしてたのにー」

むくれる菜月に、また買ってくるから、と優花はなだめた。レミは、大抵授業の二十分前に家に来る。惣介は時間ぎりぎりに帰って来ることも多いので、優花は彼女を居間のソファに座って待ってもらうようにしている。おしゃべり好きな優花は、話し相手が一人増えたと喜び、菜月や惣介に用意したお菓子を彼女に出して、優雅な午後の一時を過ごしているのだ。

それにしても、と惣介は思った。今の菜月の言葉ではないが、レミももう少し遠慮すべきじゃないのか。四回目、はあながち間違っていない。レミもたまにはお菓子を持って来てくれたらいいのに。惣介はそう考え、しかしそんなことを彼女がするなんてありえない、とも思った。ありがとうございます、と言ってにこにこしながらシュークリームやクッキーを齧るレミを想像した。もらえるものは、もらえ。絶対に彼女はそういう信念を持っている、と惣介は確信している。

レミが惣介達の家に通うようになって、もうすぐ二ヶ月だ。蛇や魔女のイメージだった彼女の性格も少しずつ解ってきた。

授業のペース配分を間違えた時は、宿題を使って強引に帳尻を合わせる。惣介が一人でテストに取り組んでいる時でも、優花が果物を差し入れしてくれた時は、構わず食べる。問題の解説を間違えた時は、惣介が分かったよと言っても聞かず、最初から説明し直す。二十一歳は大人だけど、自分とあんまり変わらないや、と思い少し嬉しかった。でもやっぱり、レミはレミだった。二十度を超える日がどんどん増えていき、ノースリーブで学校に来る女の子も出始める暑さの中、レミの授業を受けている間は、少しその熱が冷めるような不思議な感覚を味わった。

「あ、そういえば」

ふと菜月が惣介を見た。

「今日、図書館であんたの友達に会ったよ。惣介君、最近元気ですかって。色白で茶髪の、遠くから見たら女の子と間違えそうな感じの」

武彦だ。反射的に彼のすまなさそうな、気まずそうな、そして惣介を気遣う顔が浮かんだ。

「なっちゃんが、図書館行くなんて珍しいわね」

優花が目を丸くして呟いた。菜月が読むのは、せいぜいファッション誌と少女マンガだ。

「そう?友達に勧められて、最近読んでるよ。ファンタジーだけど」

どうやら夜遅くまで起きている理由は、読書の為らしい。

「それで、何て言ったの?」

姉の顔を見ないように、テレビの画面を見つめたまま惣介は訊ねた。番組はショートコントのコーナーに突入している。

「元気だって言っといたよ。あんまり会わないの?」

菜月はそう言うとテーブルの上に置いたコップを掴み、ごくっとお茶を一口飲んだ。

会わない訳がない。彼とは同じクラスなのだ。惣介は小さな声で訊いた。

「それだけ?」

「ううん。明日の放課後、ガソリンスタンドの前に来てくれないかって」

「えっ?・・・それで?何て返事したの?」

菜月から聞いた予想外のニュースに、惣介はたじろいだ。

「分かったって言った。伝えたからね」

じゃあおやすみー、と言って菜月は二階に上がって行った。

おやすみ、と優花が応え、惣ちゃんも早く寝なさいと言った。うん。

部屋のベッドに寝転んだ惣介は武彦の顔を思い浮かべた。引っ越してきたばかりのせいもあるが、比較的大人しくて冷静で、大抵の子より視野が広く、物事を客観的に見ることができる友達だ。そして、優しい。

謝られそうだな。

武彦が、泣きそうな表情で惣介に頭を下げる光景が想像できた。

でも、武彦は何も悪いことはしてないのに。

そんなことが頭の中でぐるぐると回って、中々寝つけなかった。

そのおかげらしい。

「あっ、今日は珍しく早いじゃん」

翌朝カマキリリーダーが、今日は雪が降るかなと言って空を見上げた。どんよりとした曇り空を指して、あの辺の地域から降り始めるかもね、と真顔で言う彼女に、けっとやさぐれた気分になる。

「俺だってやる時はやるんだよ」

惣介は今日集合時間の十分前に着いていた。しかもリーダーを除いて一番乗りだ。

「いやー、今までの萩原君からしてありえないね。天変地異?空前絶後?私、こんな奇跡の日に風邪引いて休んだりしなくてよかったわ」

「俺、逆にリーダーが休んだとこ見てみたいっス」

まじまじと惣介を見る碧に負けずと言い返す。惣介の遅刻と同様に、碧の欠席は皆無だった。登校班は地域で区切っているから、学年が変わってもメンバーは同じだ。二個上の碧とはもう四年目の付き合いだが、彼女がいなかった日は惣介の知る限りではゼロだ。

「残念ね。私は六年間皆勤賞目指しているから、そんな日は来ないよ」

「へえ、それはすごいっスね。六年なんて、もう人間じゃなくてロボットの勢いじゃないスか」

「そういう萩原君は、来年からこうやって注意してくれる人がいなくなって、その内毎日昼まで寝てるかもね。気をつけなよ、小学生留年」

「あざっス。でも、俺そうなったら自力で何とかやれるんで心配ないっスよ」

「でもそんなに生意気だと、中学上がったら上から目をつけられるからほどほどにね」

「リーダーも、その眼鏡もっと今風のオシャレなやつに変えないと流行についていけないんじゃないかと俺、心配です。気をつけてくださいね」

 集まって来た他の生徒達は、二人の言い合いを聞いてくすくす笑った。

横浜市は坂が多い。惣介の住んでいる地域もそうだ。

家から小学校までの道のりも、下がって上がるという谷のような坂があるし、最寄り駅は東急東横線の菊名駅か隣の妙蓮寺駅だが、どっちの駅に行くにも長い下り坂を通らなければ行けない。惣介はまだ小学生だから、電車に乗って遠くまで出掛けることはあまりないが、住んでいる地域が坂ばかりだと自転車を使うのが少し億劫になる。

案の定、武彦は何も持たずにガソリンスタンドの前に立っていた。うつむいているので、手前にある横断歩道の、こっち側にいる惣介にはまだ気づいていない。

惣介は武彦に気づかれないように電信柱の影に立った。暫くの間、そのままじっとしていたが、何気なく左にあるファミリーレストランの方を見た瞬間、武彦から背中を向けて歩き出した。

歩道橋の階段付近にレミを発見したのだ。彼女は機嫌が良さそうに見えた。特に理由は無いが、今は会いたくなかった。

え?今日来る日だっけ?

惣介は焦って今何時か確かめようとしたが、近くには時計台がないし、腕時計も携帯電話も持ってない。

確か一時間目が体育で、二時間目が道徳・・・。金曜だ!数学!さっき六時間目が終わって普通に帰って来たんだから、三時半近く?とりあえず家に帰ろう。武彦には明日学校で、家庭教師の日だったって言えば許してくれるだろう。明日のことは後で考えよう。

惣介は、ファミリーレストランの前に伸びている横断歩道を渡ろうとした。こういう時に限って信号は赤だ。レミは惣介の家に向かっているので、こっちには背中を向けている。惣介が立っている位置はちょうど死角に当たる。こっちには気づいていないはずだ。彼女の少し後ろを歩きながら家に帰ろう。

ぱっ。ようやく信号が青になり、横断歩道を小走りで渡りきったところで、歩道橋の方から声を掛けられた。

「帰るの?」

えっ。

ぎょっとして惣介が歩道橋の階段に目を向けると、レミがにっこり笑って立っている。

「あ、こんちは」

いつ惣介に気づいたのだろうか。何でわざわざ惣介を待っていたんだろうか。頭の中はクエスチョンマークで溢れていたが、とりあえず挨拶する。

「ねぇ、今あそこのガソリンスタンドに立っている男の子に声掛けようか迷ってたよね?何で、声掛けなかったの?」

どうやら彼女の方が、先に惣介に気づいたらしい。ストレートに疑問をぶつけてきた。

「あ、いや。あの、今日、先生が来る日じゃないですか。それを今さっき思い出して」

咄嗟に空っぽの頭をフル回転させ言った。宿題やったか確認しなきゃいけないし、と続ける惣介に、レミはまだ納得しないようだ。

「本当にそれだけ?声掛けるだけなら、よう!で済むと思うけど」

あそこの優しいおじいちゃんみたいに、と目で駐車場の警備員を指す。さっきハンカチ拾ってくれたんだ、と握っていた蝶の柄が入ったハンカチを見せた。

「友達なんでしょ?」

「しかもあの子、誰かを待ってるみたいよ?」

「まだ時間あるんだから声掛けてくれば?」

立て続けに言われ、惣介はぱちぱちと瞬きした。レミがこんなに訊いてくるなんて。

黙ってしまった惣介を横目に、レミは青になった横断歩道を渡り始めた。

「ちょっと、どこ行くんですか、先生?」

彼女はずんずん歩き、横断歩道を渡りきったところで振り返って叫んだ。

「あの子に挨拶してくる。萩原君は今からあたしの授業を受けるんだって。でも、少しなら時間あるよって」

「ちょっ、ちょっと待ってください」

仰天した惣介は慌てて横断歩道を突っ切り、レミの前に回りこんだ。通せんぼをする。

「放っといて、いいスから」

「別に余計なことは言わないけど?」

「いや、そうじゃなくて」

惣介は息を吸い込んだ。

「俺、会いたくないんです。謝られても困るから」

行ったら頭を下げられる。多分そうだ。

四年生になる前の春休み、惣介は武彦・直輝・良兵と一緒にファミリーレストランの下に入っているヨークマートに買い物に来た。ただ、買い物しに来た訳ではない、万引きしに来たのだ。

良兵は惣介の幼馴染で、幼稚園の頃からお互いの家を行き来していた。彼の家は、ガソリンスタンドから伸びている坂を少し下ったところにある、横道を入ってすぐの一軒家だ。

父親が大河ドラマや歴史小説が好きだったせいか、彼も小学生ながら日本史に結構詳しくて、惣介によく、あの武士は日本人の鏡だとか、昔の美人はおたふくみたいな顔なんだぜとか、俺達の名字で昔の階級が分かるらしいとか、色々なことを話して聞かせた。剣道の道場に通っていて、テレビゲームやカードゲーム、漫画よりもその練習や筋トレが好きで、また、近くのお寺や神社に遊びに行ったりする少し変わった奴だ。

良兵とは一、二年同じクラスだったが三年は別々になった。直輝と武彦は良兵と同じクラスで、彼の友達として惣介は知り合った。

きっかけは単純なものだった。四人でスケボーの競争をして、ビリになった奴が度胸試しということで、スーパーでお菓子をいくつか盗んで来る。

ビリになったのは武彦だったが、彼はいざとなると悩み始めたので、皆でついて行くことにした。

フロアは一階分しか無いが、店内は割りと広く陳列棚の高さもある。防犯カメラは設置してあるだろうが、短時間で手際よくやればばれないだろう。そう惣介達は甘く考えていた。

武彦以外の三人はばらばらに店に入ると、菓子コーナーに向かう武彦から店員の目を逸らそうと大きな声で雑談し、惣菜のコーナーへ向かった。十分後、ヨークマートのドアの前で待ち合わせた三人は、武彦がミニサイズのポテトチップスやプリッツをジーパンのポケットから取り出したのを見て、おーっと湧き上がった。

「うまくいったやん」

「すげー」

「少し緊張したな」

口々に褒め合いほっとした直後、直輝が三人の背後に立っている人物を見つけ顔を強張らせた。

「ちょっと、ちょっと。・・・リーダーは誰?」

年配の、太い眉をぐっと寄せ厳しい表情をした店の店員だった。

「〝みないち〟の生徒だろ?・・・ったく、あの小学校もモデル校だか何だか知らないけど、最近ゆるくなったよね。この前も未遂が一件あった。出しな」

安心して気を緩めたところだったのもあって、すっかり怯えた四人は俯き彼の言葉を聞いた。

男は武彦から菓子を受け取り、

「君達の名前は?」

四人の顔をゆっくり見渡して、内ポケットから手帳とボールペンを取り出す。

橋本直輝。萩原惣介。柳川・・。男は四人の名前を殴り書きし、再び口を開いた。

「で、言い出したのは?・・・何かきっかけはあったの?」

この問いに皆は黙った。ここは、四人全員が同じ罪の重さだとそれぞれが心の中で思った。しかし、男は尋問を続けた。

「君達、三人と一人で別々に店に入って来たよね。小学生の男子が四人も菓子コーナーでうろついてたら不審がられるから。計画してたんじゃないの?別に君達を補導しようとまでは言わない。でも学校には連絡する。言い出した奴の名前だけ使わせてもらう。それだけだ」

じりじりと沈黙の時間が過ぎていった。暫くして良兵が口を開いた。

「俺です」

惣介達三人は良兵の顔を見た。何を言う気だろう。

「スケボーの競争をしようって俺が言って、こいつが、ならビリの奴に罰ゲームありなって言って」

そう言って惣介を指差した。

「罰ゲーム何にするって言って。惣介が、じゃあ肝試しか何かにするかって。腹減ったからここで食い物万引きして来るのは?・・・んじゃ、そうするかって」

年配の店員は良兵の話をじっと聞くと怖い顔で、次は補導だからなと言い店に入って行った。

良兵は三人の顔を見て、帰るかと言った。誰もがぐったりしていた。しかし良兵の、これで片付いたというような表情をちらっと見た惣介は、抑えきれなくなってつい口に出してしまった。

「おまえ、あれで責任取ったつもりかよ」

え?他の三人が惣介を見つめる中、彼は続けた。

「俺ですって言ってもらって助かったよ。マジで。でも何だよ、あれ。事実と全然違うじゃん」

本当のところ、スケボーの競争をしようと言い出したのは惣介だった。そして、スケボーに普段あまり乗らない良兵が、じゃあ俺以外の奴がビリになったら罰ゲームありなと、言い出したのだ。肝試しの提案をしたのは直輝だし、この近くに墓はないから、店の万引きにしようと言ったのは武彦だ。

「責任取ってくれるなら、ちゃんと本当のこと言えよ」

唖然とした表情の良兵を睨みつけると、

「俺、先帰る」

そう言い残し、惣介は三人をその場に残して去った。

それ以来、惣介はその三人とは口を聞いていない状態が続いている。

その出来事から暫く経つと、良兵がわざとああやって嘘をついたのかなと思うようにもなった。惣介をダシに話をしたのは、付き合いの短い直輝や武彦より、惣介の方が気楽で、しかも、もし今後あのことで何か問題が起きても幼馴染の惣介と上手く話を合わせておけば大丈夫だろう、という良兵なりの配慮だったのだろう。彼はそういうつもりだったのかもしれない。ただ、良兵もまだまだ子供で、責任を取ると口では言っても、自分一人だけが全て悪いという風に話したくなかった。その形があの説明になった。

しかし、惣介はあの時そこまで考えることは出来ず、ただあの言い方だと、自分が万引きを提案し、良兵がそれに従ったという嘘の話で、自分一人が悪者に見られることに怒っていた。

「なるほどね」

レミは惣介の話を、何か考え込むようにして聞いていた。惣介が良兵に対して怒ったくだりの時は、顔を上げ惣介の顔を凝視した。暫く黙っていたが、ふいにガソリンスタンドの前に立っている武彦を指した。

「あれは・・・武彦君?」

話の流れから、現実的で真面目な武彦だと推理したらしい。良兵や直輝はこんな風に人と待ち合わせはしない。直接家まで行ってしまうのだ。

「うん」

彼は、もう三十分も同じ場所に立ち続けていた。赤く染まっていく空をじっと見上げている。

武彦が惣介に話しかけようと思っている理由は、何となく分かる。

直輝と武彦は惣介と同じクラスだ。でも、まるで話したことがないかのように教室では振舞っている。直輝はともかく、武彦は内心ずっと気にかけていたのだろう。そんな時、偶然図書館で面識のある惣介の姉と会い、これを機に行動したのだ。

「良兵君の家は?」

ふいに、レミが訊いた。

「この坂下ったところ。五分ぐらい」

その返事を聞いたレミは、急に惣介の腕を掴んだ。ガソリンスタンドに向かって歩き出す。

「うわっ。先生?何?どうすんの?」

慌てた惣介に、レミは眉一つ動かさず淡々と言った。

「決まってんじゃない。武彦君と一緒に、良兵君の家に行くの」

「はあっ?いや、だって今家に居るかも分かんないし・・」

レミはぼそぼそ抗議し続ける惣介を無視し、横断歩道を渡って武彦の前までずんずん歩いた。そして、ぴたっと足を止めて武彦を見ると微笑んだ。

「今日は。惣介君を連れて来たんだけど」

レミを見て困惑した武彦は、掴まれている惣介を見て目を丸くした。

「あっ、萩原」

「うす」

「今から良兵君の家に行こうって話してたんだ」

続けてレミは武彦に、良兵の家まで連れてってくれる?と訊ねた。武彦は事態がよく飲み込めていない様子だったが、言われた通りに先頭に立って歩き出した。坂を下っていく。横道に入ると車のエンジン音は遠ざかり、レミの履いているパンプスの靴音だけがコツコツと響いた。

良兵は家に居るだろうか?今日は剣道の日じゃなかったか?今日は金曜日・・。あっ。

惣介は急にあることを思い出して声を上げた。

「先生」

「何?」

「今日の授業は?」

「・・・・ああ」

レミは袖をめくり、もう四時二十分ね、とさらりと言った。

「あの、俺、来週までに倍の宿題は嫌なんですけど」

反射的に、思ったことを口に出してしまった。

彼女なら一回分の授業範囲をそのまま宿題にしてしまう可能性がある。すぐに、言わなきゃよかったと後悔した。

レミが突然足を止めた。掴んでいた惣介の腕も放した。そして振り返り、硬い表情で惣介を見つめた。

 「今行かなかったら、いつ行くのよ!?」

惣介も、前を歩いていた武彦も、息を飲んで彼女を見た。レミが怒鳴ったのは初めてだ。

「惣介君。君さ、昔の方が良い表情してたよ」

きょとんとした惣介に向かって、レミは静かに言った。

「ロスに行った時の写真も、去年までのクラスの集合写真も、友達と写っているのも、全部ちゃんと心から楽しんでいる顔だった。アルバム見た時、あまりに目の前の惣介君と印象が違うから驚いた」

ああ、と惣介は思い出した。レミの授業を初めて受けた日だ。あの時見せたアルバムの写真をまだ覚えてたんだ。あんなに熱心に質問したのは、俺らしくなかったからなんだ。

それに、と口の端を緩めてレミは続けた。

「今日の分ぐらい、土日を削れば終わるし」

「先生、今の一言で台無しです」

彼女の次の言葉を予想していた惣介は、間髪入れずに突っ込んだ。

黙っていた武彦が吹き出した。つられて二人も笑った。

「でも、先生。良兵の家に行ってどうするつもりなんですか?」

それを聞いたレミは呆れた顔で惣介を見遣り、

「どうするつもり、なんじゃなくてどうしたいかよ。それは自分で考えて。あたしは何もしない。でも、簡単なことよ」

だって、とレミは真顔で惣介に言った。

「男の揉め事は、女よりよっぽど楽なんだから」

平屋の大きな家。玄関の前にはガレージがあり、フェンスで囲まれた小さな庭も見える。〝飯倉〟と書かれた大理石の立派な表札を見て、レミは惣介に確認した。ここ?うん。

ピンポーン。

「はーい」

少しして出て来たのは、恰幅のいい良兵の母親だった。三人を不思議そうに見た。あら?何かしら?目がそう言っている。

「突然の訪問、失礼します。良兵君に用があって来たのですが」

この子が、と言ってレミは惣介を前に引っ張り出した。痛っ。惣介は顔をしかめたが、すぐにおばさんの顔を見上げて今日は、と挨拶した。

おばさんはああ、惣介君。久しぶりね、とにっこりした。そして、

「今、良兵呼ぶわね。ちょっと待ってて」

と言い残して、家の中へ入った。

早く出て来て欲しい気持ちと、出て来ないで欲しいという相反する気持ちが、波のように交互に惣介の頭の中を浸した。こういう時の待ち時間は異様に長い。レミも武彦も、一言も喋らない。時折、武彦の鼻をすする音と、レミが鞄を持ち直す音だけが聴こえた。

暫くして、ドタドタと階段を駆け降りる音が、惣介の耳に聴こえてきた。ガチャンとドアを重そうに開けて、良兵が出て来た。

彼は真っ先にレミに気づき、不思議そうな表情をした。そして、両脇に立っている惣介と武彦を見ると、

「よう」

と声を掛けた。

「よっ」

惣介もとりあえず返事をしたが、頭の中は真っ白だった。何て言えばいいんだ?

すると、レミが彼の背中をドンと叩いた。ぎゃっと叫びレミを睨んだ惣介は、彼女の、蛇が威嚇するような目を見て怯んだ。どうしたいの?仲直りしたいんじゃないの?・・・・はい、その通りです。

「えっと、俺、あれから考えたんだけど・・」

惣介はおもむろに口を開いた。

「何か最近、前に比べると楽しくないっていうか、物足りないっていうか・・」

「それで?」レミが促した。

「いや、だから、その・・・俺の周りで、朝の六時からジョギングしてる奴はいないし、大河ドラマ見てそのセリフを覚える奴もいないし、そのおかげで歴史で九十点取ったし、クラスの百人一首大会で三位になったのも俺一人の力じゃなくて・・」

途中から惣介以外の三人が笑い出した。武彦は口を押さえ、レミは普通に、良兵は頭を掻きながら。

「だから、また・・」

惣介は、頭の天辺からつま先まで赤くなった気がした。恥ずかしい。ホント恥ずかしい。何言ってんだ、俺。・・・・でも、こうやって笑いたい、また。だから。

「一発殴っていいか?」

惣介は、まっすぐ良兵を見て静かに訊いた。

確かに、あの時良兵が口を開いてくれたから店員は納得した。大事にもならなかった。良兵なりに他の二人の名前を出さないように、配慮したのかもしれない。でも、あの説明は惣介を傷つけた。だからこそ、わだかまりが残った。

「・・・・右な」

良兵はぶっきらぼうに言って、自分の左頬を指した。やれよ、と目が言っている。腕をまくって、足を少し開く。

武彦とレミは二人から少し離れた。ドアの横に付いている電灯に、惣介と良兵だけが照らし出される。

惣介は右手を握り、はぁっと息を吹きかけた。そして、近づくと躊躇わずに良兵の頬を殴った。

拳に頬の内側の骨が触れた感覚と、良兵の身体が揺れたのが同時だった。

「いってー」

彼は地面に尻餅をつき、苦笑いをした。ってーよ。痛ー。そして言った。

「悪ぃ」

惣介を見てにやっと笑う。

惣介もにやっとした。右手をゆっくり開くと、ズボンで汗を拭った。なんだかすっとした。

「じゃあ、次俺ね」

 心地いい解放感に浸っていた惣介に、氷の矢が突き刺さった。

「え?」

今何て?と訊き返す間もなく、左頬に衝撃を受けた。頭がぐらぐらする。地面に手を付いた。いってー。思わず言った。

「おまえな、ちょっと待てよ。いきなりはないだろ」

「・・・・咄嗟だったんだよ」

良兵は、庭のフェンスを越え出て来た猫を見つめ、小さな声で言った。

「え?」

「とりあえず、あの場をなんとかしなきゃって状況だったろ?頭ん中真っ白だったけど、誰か何か言わないとって。おまえが案、出したみたいなこと言って悪かったよ。でも、俺だって必死だったんだよ。なのにおまえ、ホントガキみたいに怒って先帰るし。俺があの時、何も言わなかったらどうなってたんだよ?もっと長く説教されてたかもしれないんだぞって、カーッときて。・・おまえが謝りに来たら、俺も謝ろうって思ってたんだ」

良兵の話を黙って聞いていた武彦も口を開いた。

「俺と直輝も、ずっと萩原に謝ろうと思ってて」

良兵と惣介の顔を交互に窺いながら、恐る恐る続けた。

「あれやろうって決めたのは四人全員だし。良兵一人に責任取らせるみたいになっちゃって、あの後二人で良兵には土下座したんだ。・・・・萩原にも謝ろうって思ってたんだけど、教室で呼び出す訳にはいかないし、おまえは俺達避けてたし。だから、おまえの姉さんと偶然会った時、今しかないって。ホントは今日直輝も来るはずだったんだけど、あいつの母さんの具合が悪くなったとかで、来れなくなったんだ」

急に、この前の出来事の直後に時間が戻った気がした。惣介は不思議な気持ちで武彦の言葉を聞いていた。

「ごめん。二人に全部任せちゃって。ホントごめん」

そして武彦は頭を丁寧に下げた。それを見た惣介と良兵は慌てて、ストップ!と叫んだ。

「もういいって」

「そうそう、俺がむかついてたのは良兵だけだから」

「俺もむかついてたのは、惣介だけだから」

恥ずかしいような、嬉しいような変な感じ。でも、すっきりした。武彦がくすくす笑い、つられて惣介と良兵も笑った。

パンパン。

その光景を、一人静かに見ていたレミが手を叩いた。

「帰るよ」

これにて一件落着、と三人に向かってピースした。

「武彦と良兵が、すっごい不思議そうな表情で先生のこと見てましたね」

もう少しで家に着くというところで、惣介は前を歩くレミに声を掛けた。風はなく、気温もちょうど良い。惣介の左頬には、うっすらと青紫色のあざが出来ていたが、今は全然気にならない。

「明日学校で絶対、あの人誰だった?って訊かれるんだろうな。・・・でも、あんな、無理矢理良兵の家まで引っ張ってくなんて、別人みたいでしたね。先生、誰かに何か言われたんですか?」

厳しすぎるとか、と話し続ける惣介の言葉を聞き、レミは立ち止まった。惣介の方を振り返ると、能面のような表情で口を開いた。辺りが暗いのもあって、ホラーに出てきそうだ。

 「今日の宿題は、今日やるはずだった分の予習と、前回の範囲の小テストの勉強と、後再来週に中間テストをやるから、今まで習ったところで分からない問題があればそれを解きなおして提出してね。・・・ああ、そうそう。そう言えば、来週の月曜日の英語は今まで習ったところの中間テストよ。後、いつかみたいに宿題を忘れてくるなんて二度としないでね。それから、その英語の中間テスト、点数が低かったら何度でもやり直すから気合入れといて」

 まだあったかなと続けるレミに、戻ったよと惣介は溜息をついた。

 「ちょっと。あんた、何で溜息なんかついているのよ」

「え?あっ。すいません、すいません。でも、先生喋っていること早すぎて覚えられない・・」

「今覚えなかったら、テストは絶対百点取ってもらうからね。罰ゲームは次回の授業を逆立ちで受けること」

「ええっ?それは無理。しかも先生、俺お客なのに今あんたって言いましたね」

「何言ってんのよ。あたし小学生の頃、テストで九十六点以下なんか取ったこと無いんだからね。それに、十歳やそこらの子供ならあんたで十分よ。何?敬称付けて欲しいの?」

「・・・先生、子供っぽいです。素が出てきたんスね」

 「喧嘩売ってるの?」

 「あっ、思い出した。今日、家に帰ったらロールケーキありますよ」

 にんまりと笑って惣介はレミの顔を見た。絶対ノッてくる。

 案の定、レミの耳はぴくりと動いた。

 「え?」

二階の窓には黒猫が

 三階の窓には白猫が

 すーすー眠っておりました

 窓の外にはオレンジの家

 もっと先には青い海

 風がさらさら吹いています

 あっちにはパン屋さん

 こっちにはお花屋さん

 私は白いワンピースを着て

 茶色い靴を買うのです

 早く来て

 今すぐ来て

私はもう、待ちきれません

ミルクティーとクッキーを

       ※

ドアを開けると、そこは海でした

ドアを閉めると、そこは森でした

右手には地図

左手にはコンパス

困ったなあ

泳げないのに

走れないのに

パラソルを目指して

テントを探して

私は帽子を深くかぶって、勇者を見つける旅に出ます

いつの間にか、夢見ていました

ああ、ここは家

ああ、ここはベッド

嬉しいなあ

でもね、急がなきゃ

だってね、汽車が来るから

私は切符と鍵を持って、夜の城へ出掛けます

最初の詩には「午後の街で」、次の詩には「旅人」という題が、ノートの余白に書き込まれていた。

麗美は中学生の頃から大学に入るまで、よくノートに詩を書いた。誰にも見せたことはなく、また見せる気にもならなかった。夜眠る前に部屋で一人、密かに書き連ねた。宮沢賢治の詩集やゲーテの「ファウスト」に出てくる詩を真似して、その時思っていることを素直に書いた。

しらふじゃ恥ずかしくて、まともに見られないな。

パタン、とノートを閉じて、麗美は机の引き出しにそれを閉まった。

まだ自分が小学校に通っていた頃、家に帰って来るといつも一人だった。両親は共働きで、高校生の姉はバスケ部の練習。三人が帰って来るのは毎日夕方以降。辺りが暗くなってから。麗美もピアノや英会話教室に通っていたが、それらは週三日程度で、母親はともかく、土日すらも外に出ていることの多い父親や姉と話す時間は少なかった。

父親は仕事で忙しく、たまの休日は家でテレビを観たり、ソファに横になって寝ていた。そんな風に、休日を癒しの時間に当てている父親に、遊んで欲しいとはねだれなかった。

母親は、平日は銀行でパートして、土日は普段洗わない台所のマットやトイレの便座カバーを洗ったり、家計簿をつけたり、頻繁には行かない電気屋や夫のスーツを新調する為に店を調べたり、とこちらも忙しい。

高校生の姉は、時間を見つけては麗美に話しかけ、学校どう?好きな子できた?中学入ったら、部活何やりたいの?と、色々な話を聞いてくれた。それでも、バスケの試合が近くなると土日も練習が入ってしまうから、いない日の方が多い。

誰もいない家に帰るのが嫌で、家に帰る時間をなるべく遅くしたくて、麗美はよく学校の友達を誘って、陽が暮れるぎりぎりの時間まで公園で遊んだ。しかし、どうも家族が年上ばかりだからか、同い年の友達を幼いと思ってしまうことも少なくなく、ちょっとした言い争いで泣かれてしまった時などは、どうすればいいか分からず戸惑った。寂しくても、わがままを言いたくても言えず、感情を押さえ込むようになっていた麗美にとって、本能や感情を素直に出す友達は、自分とは違う生き物のようだった。そして、どこか羨ましかった。

年末年始ぐらいしか父親がゆっくり休めないから、家族旅行に行ったことも数回しかないが、自分の人生を変えた原点だと思う旅行が一つあった。

六年生の夏休みに、一週間パリへ行った。生まれて初めての海外旅行だった。

何て自由なんだろう。

全ての建物、乗り物、自然、目に映る全てが新鮮だった。けれど一番惹かれたのは、人だった。

ショコラとクロワッサンを渡してくれたカフェのおばさん、広場でサックスを吹いている若い男、メキシコ料理のレストランのウエイター。彼らは自分に誇りを持ち、それぞれ好きなように生きていた。目が輝いていた。あくせくしていない。他人の目や労働の苦痛から解放されている人達。カラフルな個性。そう思った。あたしが求めているのはこれだ。

麗美には両親も姉も、決ったスケジュールを淡々とこなす毎日を送っているように見えた。人形のように。工場で作られる製品のように。そして自分は、そうはなりたくなかった。いつでも余裕を持っていたい。ほんのり香って飲み終わるアメリカンコーヒーじゃなくて、濃くて苦くて少しの間テーブルに置くことも度々あるエスプレッソ、そんな風に生きたい。そうじゃなければ、人間として生まれてきた意味がない。だから決めた。目標は高く。常に高く。無理に他人に合わせる必要はない。人と同じじゃ駄目だ。思ったように行動しよう。

その旅行をきっかけに、麗美は他人との距離の取り方を少しずつ変えていった。

むやみに群れない。人と同じ意見は口にしない。手を抜かない。おかしいと思ったら、周りの空気をあえて無視し、反論する。そんな風に押さえ込まず自分を出すことは、時にはつらくても、昔のように内に秘めるより全然楽だった。そのせいか、麗美はだんだん学校で有名な生徒になっていき、わがままだのお嬢様だの、苦労を知らないだの、好き勝手噂された。反対に、格好いいとファンになる女の子も出始めた。麗美は自分のそんな評判を全く気にしなかった。ただ、ごく間近にいる友達とは上手に付き合った。他人の心情を汲み取るのは彼女にとって容易いことだった。だから、クラスのカリスマ的な存在だった。周りの女の子は、麗美が持っている文房具をかわいいと褒め、男子は勉強もスポーツも出来る麗美に一目置いていた。

学年が上がりクラスが変わるごとに、あの子はお嬢様で英才教育を受けてきて、しかも美人だし、なんでも器用にこなせるから、自分の好きなように行動し、周りにはちやほやされて育ってきた、という目で見られる。言葉には出さなくても接し方で、そんな風に見られているんだなと解る。その度に麗美は、じゃああんたも努力すればいい、と心の中で舌を出した。

毎日五時に起きて軽くストレッチをする。その後三十分のロードワーク。ただ走るのではなく、身体のフォームや腕の振り方を意識して走る。家に帰ってきたら宿題を見直し、その日の科目の予習をする。肌が荒れないように、深夜のテレビ番組は録画して休日に観る。お菓子は新作が売り出した時のみ買う。姉にオススメの文房具屋やかわいい雑貨屋を教えてもらう。パソコンで今年流行った曲やファッションをチェックし、気になる物はメモする。お風呂の中では歌を歌い、暇を見つけてはピアノを弾いた。毎日一冊本を読むように心掛けた。明日の予定を確認しベッドに入った時初めて、今日の一日が終わったと麗美はリラックスした。何も考えず頭の中を空っぽにしてぐっすり眠った。

何をするにもとにかく上手に時間を使いたくて、常に頭を働かせた。考えて動くということは、当たり前のようでいて実際大変だ。結構疲れる。でも、この毎日のささやかな意識と練習、勉強の積み重ねで能力が上がる。出来ることが増える。

あたしが最初から何でも出来るなんて、どうして決めつけるんだろう。クイーン?かわいがられた?冗談じゃない。出来て当然なのだ。これはあたしの訓練の成果なんだから。

そんな麗美だったが、高校一年の時に転機が訪れた。

中学の時から続けて入ったバドミントン部で、二年の先輩と喧嘩になってしまった。原因はシンプルだった。その先輩より麗美の方が上手かったので、レギュラーを降ろされた のだ。

「でも、この子まだ一年じゃん。試合経験はウチの方があるし」

ミーティングでメンバー交代を発表された時、不満を抑えきれなかった先輩はミーティング後、顧問の北原先生に抗議した。その場に残って先輩の文句を聞いた麗美は、思わず言ってしまった。

「先生、私メンバー降ります」

それが一番の解決策だろう。そう思ったのだ。それに麗美が抜擢されたのはダブルスの後衛だ。その先輩の友人と組むことになる。やりにくい、と思った。個人競技ではないのだ。息が合わなければ試合には勝てない。

しかし、それは逆効果となった。

「別に、難癖つけてる訳じゃないから。けどこれはダブルスだから、ウチの方が真由には合わせられると思っただけ。高原さん、ダブルス向いてないでしょ?」

そっけない口調で麗美に言うと、先生、もう一回考えてよと言い残して、その場を離れて行った。

五十台半ばで白髪頭の北原は、眉間に皺を寄せてやれやれと呟いた。その表情は、このような問題は過去にいくつもあったのだという経験者の顔だった。

「高原、気にするな。部活は実力主義なんだから。おまえは普段どおりに練習すればいい」

そして頭を掻きながら、体育館の壁際をランニングしている、さっきの先輩を目で追った。麗美も北原につられてそっちを見遣った。彼女は険しい表情で黙々と走っていた。

ちゃんと一定のペースを保っている。短いポニーテールは、振り子のように規則正しく揺れていた。

“高原さん、ダブルス向いてないでしょ?”

先輩が先生に文句を言ったことに関して、麗美はあまり気にしていなかった。子供っぽいとは思った。でも、こんなのはよくあることだった。中学の時も、友達と先輩が似たような喧嘩をしたことがあった。しかし、この最後の言葉だけは響いた。ベリベリと破られた気がした。頭がずきずきし、目の奥がつーんと痺れ、体育館が滲んだ。

“何で”

“何で”

“何で、こんな風に言われなきゃいけないの?”

ポニーテールはラケットを片手に持ち、タオルで汗を拭いていた。北原が自分の顔を覗き込んでいることに、気づいた。

「・・・・先生」

「ん?」

「私は、ダブルスに向いてないんでしょうか」

ポニーテールは仲間に向かって何か叫んでいる。さっきの抗議など忘れているかのように見えた。

「そんなことはない。さっき言われたからか?」

麗美はそれだけじゃない気がするんです、と首を横に振った。

「ぐさって刺さったんですけど、そうかもって少し納得して」

上手く言えないんですけど、とても大切なことを言われた気がして、でもすごくショックで。ぽろりぽろりと、噛みしめるように声に出した。

 「高原には高原の良さがある。・・・でも」

北原は、振り返って打ち合いをしている生徒を眺めた。

ラケットを振っている。前かがみになってシャトルを拾っている。宙に浮いたシャトルを見ながら後ろに下がっている。

「好きになれ」

麗美は瞬きして、えっと声を漏らした。どういうこと?

 「もっとバドミントンを好きになれ。んで、やってる自分も打ち返す相手も、素敵な人間だと思うことだ」

 単純だろ?と北原は麗美を見た。

 「世の中、単純なことが大事なんだ」

 その日の夜ベッドに入るまで、麗美は昼間の出来事を反芻した。

 好きになる。バドミントンを好きになる。自分も相手も好きになる。

 何となく解った気がした。確かに北原の言った通りだ。単純なことは大事で、しかも難しいんだ。

 ありがとう、先生。あたし、自由になったつもりで縛られてたんだね。これから頑張るよ。

エピローグ

「それで?」

 受話器の向こう側の声が続きを促した。

 「良兵君の家まで引っ張ってって、ご対面して。最後は殴ってすっきり」

 「万引きか。でも、大事にならなくてホントよかったよね。ねぇ、レミ」

 「何?さやか」

 「変わったね」

 「変わった?どこが?」

 「雰囲気が」

 「そう?」

 「うん。丸くなった」

 「丸くなった・・・・前はもっと尖ってた、あたし?」

 「うん。尖ってた。もうビンビン。ハリネズミみたいだった。あんた、気づいてないかもしれないけど、機嫌悪い時は結構顔に出てたわよ」

 「え!?嘘!?」

 「ホント、ホント。何かねぇ、周りの空気がどろどろしてて負のオーラが漂ってますって感じ」

 「・・・・そんなに?」

 「うん。あっ、ちょっとショック受けてる?これを機に反省しなさい。・・・でもさ、レミ、好きになったんだね。その子のことを」

 「え?ちょっと、誤解を招くような言い方しないでよ。・・・・・でも、そうだね」

 いつの間にか、グランドキャニオンのポスターが貼ってあるあの部屋で勉強を教えている間も、惣介と良兵の殴り合いを見ている間も、自分のことなんて忘れていた。『今』に集中していた。

ああ、あたしは子供なんだ。周りの誰よりも、子供なんだ。ずっと殻に閉じ込めていたから、それに気づかなかったんだ。子供が苦手だったのは、自分の隠していた部分を、見せられているからなんだ。あたしは、それをみっともないと思ってた。だから今まで逃げてたんだ。

先生、やっと気づいたよ。

「さやか、夏休みに高校行こう」 あの蒸し暑い体育館で、バドミントンがしたいと思った。

Leave a Reply