3.2012 「カシューナッツ」

哲也は大学一年生。四年前に母親がいなくなって以来、一家の料理番となっているが、将来についてはさっぱり。のらりくらりと過ごしていた哲也の元にある日鏡が届いてー。

十五の時に俺の母親、弘美は「てっちゃんは、もうお兄ちゃんなんだから、瞳の面倒を見てあげてね」と、笑顔で言うと小さなショルダーバッグ一つ下げて、家を出て行った。

 八月の中旬という夏休みの真ん中に当たる、真夏日だった。

弘美は、大きな向日葵がいくつも咲いている白いワンピースに、サンダル、頭の上にはサングラス、という旅行に行くような出で立ちで、本当にすぐ帰ってくるんじゃないかと、俺は心底思った。

当時、まだ七歳だった瞳と俺は、それぞれアイスを舐めながら(瞳はサクレのオレンジシャーベット、俺はサーティワンのティラミス)、気をつけてねとか、忘れ物あったら電話するとか、実に軽いお見送りをした。母親が子供を残して家を出て行くというのに、俺も瞳も「母さんは旅行に行ってくるんだ」と錯覚してしまったらしい。それほど、弘美のきらきらした顔を見るのは久しぶりだった。そして、それは悪い気分じゃなかった。さらに、弘美は俺達とある約束をしていた。「月に一度は、どんな短い時間でも必ず会いに来る」。

翌日、クラスメイトに、昨日母親が家を出て愛人のところに行ったんだ、とさりげなく話すと、おまえの母ちゃんひでぇなぁ、と同情するような表情(かお)をされた。本当は、愛人のところに行ったのかどうかは知らない。そもそも愛人がいるのかどうかも。ただ、なんとなくそう言いたかった。大切な存在が俺達家族以外にも出来たから、母さんは家を出たんだ。そう考えた方が前向きな気がした。何にも無いと、俺や瞳とも母さんは遠ざかりたかったのかも、と心のどこかで考えてしまう。

まあ世間的に言えば、弘美が悪く見えてしまうのかもしれない。どんな理由があれ、子供を残していくなんて、と。

けど、俺も瞳も弘美のことを恨んだり、俺達は捨てられたんだ、とかそんな風には思ってない。今でも月に一度、家の近所の喫茶店や公園で欠かさず会っているし、結構頻繁にメールも来る。「ちゃんとご飯食べてる?」とか。

一日の大半を沈んだ表情で過ごしていた母親が、笑顔を見せる回数が増えてきたから、むしろ嬉しい。認めたくないけど、俺は少しマザコンなのかもしれない。弘美が会いたくないのは、多分俺達の父親だけだ。

 俺と瞳の父親、博史は毎日新聞社の経済担当記者だ。朝から晩まで、ほとんど一年間休みなしで働いている。あちこち出張にも行く。きちんとした食事を採る時間もないまま、訪問先に赴くなんてこともしょっちゅうらしい。・・・その割には、最近下っ腹が膨れてきたけど。

 母さんが親父と口げんかしたり、黙って何か考え込むようになったのは三年くらい前からだ。

 最初は気づかなかった。

ソファに座ってぼーっとテレビを観ている弘美を見て、疲れてるんだ、と思ったことが何回かあった、とは覚えている。それから少し経った頃、近所にあるファミレスでパートを始め、その一年後には、「母さんね、社会復帰したいの」と話し、ケアマネージャーの教材を買ってきて勉強し始めた。そして半年後に資格を得、家から四駅ほど離れた場所にある養護老人ホームに就職した。その間、勉強の傍らで家事もこなしていたから、つくづく母親というのはすごい、と思う。弘美は、俺達が生まれるまで、元々介護福祉士として働いていたから、生活にハリができて良かったかも、と俺は密かに嬉しかった。

 けど、ちょうど俺が高校受験の年で、バスケ部を引退した直後に弘美は家を出た。(受験があるから、三年は冬にある高校バスケの一大イベント、ウィンターカップには出れない―高校総体の予選が最後だ)息子の受験が終わってからにしよう、と最初は考えていたようだが、「ごめんね、引っ越しの関係で」。あっさり謝られた。「まあ、受験勉強は塾の先生に教えてもらうのが一番だしね。私の出番はないわ」。・・・・・母さんは、思い悩んで思い込んで抱え込む時期を脱すると、案外さばさばしている。

 母さんが家を去ってから、残りの三人がこの環境に慣れるまで三か月くらいかかった。いや、今でも正確には慣れていないんだろう。

 まず第一に、誰も食事を作れない。

 第二に、誰も洗濯をしない。

 第三に、掃除機をかけない。

 第四に、リビングの隅で申し訳なさそうに立っている観葉植物(ジャスミン)に水をやらない。

 布団を干さない。

 トイレ掃除をしない。その他ずらずら。 

 週一くらいの割合で洗濯だけは俺が何とかやっていたけど、食事はカップ麺やコンビニ弁当がほとんど。母さんに会った日だけは、きんぴらごぼうとか、ほうれん草のおひたしだとか、まともな食事を採っている(パックに詰めたものをもらっている)。

二週間が過ぎた頃、このままじゃまずい、と家族会議を開いた。リビングに三人が集合する。時刻は二十一時を回ったところだ。瞳は赤いギンガムチェックのパジャマに着替えている。親父が伸びをしながら席についた。今日は親父が休日なので、珍しくこの時間に家に居るのだ。普段はもっと遅い。深夜に帰って来ることも度々ある。

 「えー、みなさん。せいしゅくに」

 総長が口を開いた。一体どこで覚えたんだか、瞳は嬉しそうにパンパン手を叩いている。“せいしゅく”の意味は恐らく解っていないだろう。

 「やくわりを決めたいと思います」

 瞳はクラスの学級委員長をしている。同じクラスの桜井愛梨ちゃん(一番仲良しの子だ)に、勧められたという。「ひとみんは、しっかりしてるから委員長出来ると思う」。六歳、七歳の子供が同じ子供をしっかりしていると判断できるのだろうかと思うかも知れないが、

七歳の子は七歳の子なりに考え、周りをよく見ている。

 「そうだな。そうするべきだな」

 親父がふむふむと頷く。親父のトレードマークである真四角の黒縁眼鏡をかけていない今、親父の視力は0.01以下だ。瞳が嬉しそうに紙とマジックを使って分担表を作っているが、恐らく文字は読めないだろう。

二人とも家事の一つすらやっていないのに、偉そうに。

 「で?」俺が先を促した。

 「どうすんの?」

 「てっちゃん!手をあげて発言しなさい」

 「はいはい」

俺は片手を挙げて訊ねる。

「ヒーはどうすればいいと思うの?」

 「んーと」

 ・・・何も考えていなかったようだ。

 「じゃ、俺が洗濯で、ヒーが料理で、親父が掃除、な。」

 我ながら正しい人選で分担出来たと思う。ほとんど家にいない親父に料理係をあてがったところで意味がないし、最低でも一か月に一回くらいは布団やトイレマットも洗わなければならない。小学生の瞳には、力仕事は無理だろう。

 はたして、瞳は言った。

 「てっちゃんは料理がいいと思う」

 「・・・何で?」

 驚いて訊き返すと、

 「あたしより、混ぜるのがうまいから」

 一瞬、何を言っているのか解らなかった。ヒーの真ん丸な茶色い瞳を見つめた。

 「ホットケーキ」

 ああ、と唐突に思い出した。

一か月くらい前に、母さんと瞳がホットケーキを作っていた。

 部活の練習を午前で終え、家に帰って来た俺は空腹で死にそうだったから、「ホットケーキを分けてくれ」と頼んだ。

よく晴れた、少し蒸し暑い日で、立っているだけでも汗をかいたことを覚えている。よくもまあ、この暑い日にホットケーキなんか、と思って覗いたら、ミックスが入っている箱の裏側にアイスケーキという魅力的な文字が目に入った。

けど、俺の必死の訴えは二人の耳に届いていなかった。ウサギと競走するカメのようなスピードで、ペチャクチャ言いながら手を動かしている。じれったくなった俺は、ヒーの持っていたボウルと泡立て器を奪い取った。

 「あーっ、それ、ヒーの!返して!」

 当然のごとく、ヒーは顔をくしゃくしゃにして、俺からボウルを取り返そうとしたが、俺は無視した。

 「てっちゃん・・」

 母さんは、困ったような笑ったような表情で俺を見た。が、俺の手の動きを見て、ヒーに言った。

 「ヒーちゃん。てっちゃん、混ぜ混ぜするの上手だよ、ほら見て」

 その言葉に、ヒーはぴたりと動きを止めて、俺を見上げた。

 あっという間に、ダマがなくなって、生地がなめらかになっていく。そりゃあそうだ。俺が渾身の力を込めて混ぜているのだ。

 「すべすべー」

 ヒーは目を丸くして呟いた後、口をへの字に曲げた。

 「ヒーが先に作ってたのに・・・」

 おいしいところを横取りされた気分だったのだろう。口には出さなかったが、ごめん、と思った。腹ペコで餓死しそうなんだ。

 「んじゃ、多めに作ろっか。これ、全部焼いたら残りの粉も使っちゃおう」

 母さんがやんわりと、ヒーの機嫌を取ってくれた。助かった。

 「うん」

 ヒーは、こっくりした。俺を見て付け加える。

「次は、じゃましないでね」

 「しない、しない」

 俺は力一杯頷いた。

 当たり前のことだが、俺の方がヒーより力が強い。この前は、ホットケーキの粉を力任せに混ぜただけだ。

 ヒーも何回もやればうまくなるよ、と言おうとして、気が変わった。料理も力仕事だ。おまけに火も使う。ガスを使わなければ、焼くだけの魚一匹用意できない。

 ヒーには危ないな。

 ヒーの言葉を聞いた親父も同じことを考えたらしい。

 「料理の担当は、哲也の方がいいな」

 「・・分かった」

 こうして三人の担当は決まった。

 母さんが出ていかなければ、俺はカレーすら作れなかっただろう。

 四年前に起きた、平凡な俺の人生の、一つの転機だった。

ガール、ミーツ、ガール。

直訳すると、少女は少女に出会う。

理由は分からないけど、どこか響きが良い。ゲームの攻略本や、雑誌か何かにも書かれていた言葉で印象に残った。

ボーイ、ミーツ、ボーイ。

これだと何かしっくりこない。子供っぽい。おもちゃの兵隊みたいだ。ボーイという単語や響きが、どこかガールより幼く感じる。

そう言うと、

 「そうかぁ?“少年は少年に出会う”。・・・色気が無いだけじゃねぇ?」

 ヤスが、片方の眉を上げて言った。

 「色気ねぇ・・」

確かに、男(野郎)が誰に出会おうがどうでもいい。ガールという言葉の方が興味は持つ。

てかてか光っている額をのけ反らせ、ヤスがうーんと伸びをした。

 俺とヤスは今、渋谷の駅前から少し歩いた所にある、マクドナルドに居る。

もうすぐ二十一時になろうとしているが、店内には学生やサラリーマンが多い。

後一週間もすれば十月というのに、店内は熱気で溢れている。

今日の夕方、ヤスが「ボーリングでもしようぜ」といきなりメールをよこした。ソファに寝っころがって夕飯の献立を考えていた俺は、正直面倒だったが(だって時だぜ、メール来たの)、家族以外の人間と話すのも久しぶりだからたまには良いかと、付き合ってやることにした。ヒーには、昨日の残りのクリームシチューを食べてくれと、メールした。

一ゲームと三ゲームは遊び、二ゲーム目だけ真剣に球を転がして、腹が減ったとマクドナルドに入った。

竹下康彦とは、大学のバスケットサークルで知り合った。

 俺の、ヤツに対する第一印象はずばり、

黒い。ごつい。でかい。

 無表情で何事か考えている時などは、あまり近くに寄らないようにしようと、俺は心の内で誓った。若干細身で、身長も十センチ近く低い俺では、喧嘩じゃまず歯が立たないからだ。

 ヤスの、俺に対する第一印象を後々訊いてみたところ、

 細い。小さい。イケメン・・・・だそうだ。放っとけ。

 話してみると、家がまあまあ近いことを知り、暇な時はよく中間地点の渋谷で、ゲーセンやボーリング場に行くようになった。(俺の最寄は用賀、ヤスの最寄は梅ヶ丘)

 ヤスは体系こそマッチョなものの、どこか純粋な少女みたいな一面もあって、《衣類をき

ちんと畳むところとか(以前新歓合宿で見た)、曲がったことが嫌い、(他人が陰口を言っているのを見かけると、本人に言え!と怒鳴る)誰もが見抜く嘘に引っかかる(粗大ごみは、どんな物でも、手数料に一万円取られると信じていた・・たぶん親にだまされたんだろう)》何て言うか面白いヤツだ。

 「ボーイ、ミーツ、ガール。あー、どっかにカワイイ子いないかな。俺のキャンパスライフは終わった」

 少し大げさに、がっくりと肩を下げる仕草をしたヤスに向かって、またそれか、と俺はうんざりした。会う度一回は必ず口にする。最近は、家族を除けばヤス以外の人間と会話をしていないから、さすがに聞き飽きた。

 「またそれか、とは何だ。おまえ、それでも男か。大学生って言ったら人生の夏休みだぞ?一番自由な時に彼女がいない人生なんて悲しすぎる。・・ああ、おまえシスコンだったっけ。いいな、カワイイ妹がいて。こっちなんて力士みたくデカい兄貴と、カマキリ並みに細い弟。いらねー。・・・虚しい、俺の人生」

 「シスコンじゃねぇよ。見たこともないくせに。・・〝SMILE〟は?キレイな先輩がいるとか、この前言ってなかったか?」

 “カワイイ妹”はまだ十一歳だ。当然だけど、色気も何もない。最近反抗期なのか、口やかましい。

〝SMILE〟は、俺達が入っているバスケットサークルの名前だ。入っていると言っても、現在はヤスが時々顔を出しているぐらいで、俺に至っては幽霊部員と化している。俺が最後の練習に参加したのは七月頭にある試験の前だ。その後、二ヶ月もある長い夏休みが始まって以来、全く参加していない。もちろん夏休みもサークルの活動はある。長野で三泊四日の合宿や花火大会見物もあるってよ、とヤスから聞いていた。

 「合宿で話さなかったん?」

 「んー、聴いて欲しくないな。一ヶ月も前のことなんて」

 ふっと短い前髪をかきあげたヤスから目を離し、俺は明日の夕飯について頭を巡らせた。

 一昨日はしょうが焼きだったな。昨日はシチュー。・・・明日はもうちょっとさっぱりしたものにするか。

 「おい、ガチで聴かないでくれとは言ってないぞ」

 何か言っているが無視する。・・・カツオのたたきに、ご飯とみそ汁にでもするかな。

 「実は俺、長峰先輩に告白したんだ」

 みそ汁は、なめこがいいな。

 「三日目の夜、バーベキューをやって、その片づけを皆でしててな」

 親父も明日明後日は帰りが早いって言ってたし。・・多分。

 「最後のゴミまとめまで、きちんとやったのが俺と長峰先輩で、他はもう部屋に帰っちまってたんだ」

 他のやつらは部屋に帰った?・・・最近の若者は家でゴミ捨てなんてしないから、溜まったらどれほど困るか知らないんだろう。俺は顔を上げて、

 「で?」

 袋の隅に残っていたポテトを一本口にくわえてヤスを見ると、心なしか耳が赤いようだ。食べ終わったハンバーガーの包みがトレーの上でくしゃくしゃになっている。視線を下に向けながら、ヤスは口を開いた。

 「俺は、みんなひどいっスよねって言ったんだ」

 「で?」

 「長峰先輩も、そうだよねって」

 「で?」

 じれったい。言いたいならさっさと言え。

 「俺、先輩のこと好きですって」

 「ひゅー」

 「いや、終わりじゃないんだ。・・・先輩、彼氏いるってさ」

 「・・・・ああ」

 会話の流れから、ヤスの告白の結末は分かっていたので、俺は神妙な顔で頷いた。

 近くの席で盛り上がっていた高校生のグループが帰ったため、一瞬気まずい沈黙が訪れた。

 「つーか、おまえ、そういや学校行ってんのか?沢口から聴いたら、今セメ始まってからずっと必修のゼミに出てないって」

 おもむろにヤスが喋った。

沢口というのは、〝SMILE〟で知り合った、俺と同じ経済学科でゼミのメンバーでもある奴だ。

 確かにそうなんだけどね・・・そこは訊かないで欲しい。

 「・・・・そろそろ出るよ」

 「・・・ふーん」

 納得しきれてない表情でヤスが頷いた。何か困っていることでもあるのか、と思案しているような顔だった。

 「まあ、まだオリエン終わって三回目の授業だし、今からでも大丈夫っしょ」

 慰めるように言って、コーラをぐいっと飲んだ。

 「・・・ビリヤードでも行くか」

 逃げるように、ぼそっと俺が誘い、俺達は無言で席を立った。黒く、いかつい腕時計の無機質な数字を見ると、午後二十二時を指していた。

 「てっちゃーん。もう七時半だよー」

 階下から、ヒーの声が聞こえた。声と共に、バタバタと辺りを行き交う足音もする。

 我が家の朝食は、セルフサービスだ。俺がさりげなく食パンやバナナ、納豆、海苔などおかずになるようなものを、台所の手に取りやすい場所に忍ばせてやってるから、ヒーも親父も適当に済ませてくれる。

 俺はそろそろと手を伸ばして、カーテンをちらっとめくった。途端に眩しい光が目に入ってきて、慌てて目をつぶる。

 俺の部屋は、一軒家の二階に位置する角部屋だ。九畳ある。

魚が描かれた青いカーテン、群青色の絨毯、紺色チェック模様の布団カバー、グッピーが数匹泳いでいる小さな水槽、と何だか海の中みたいだが、俺はそこそこ気に入っている。

 ドアを開けると反時計回りに、頭を前方に向けた作りのベッド、そのベッドが添えられている壁にはクライド・ドレクスラーのでっかいポスター、枕の右斜め前方には窓、その右側には机、本棚、水槽が置いてあるタンス、小さなテレビ、と家具が並んでいる。テレビの周りにプレーステーション3の本体と、コントローラー、ゲームソフトが散乱しているところが、俺の現状を物語っている。

 「てっちゃーん。今日も学校行かないのー?」

 ヒーが、また叫んでいる。声に少し苛立ちが含まれていることに気づいて、俺も叫び返した。あっという間に、今日は十月一日だ。

 「今日は三限からなんだよ!だから、まだいいの!」

 適当に返事をする。

 「えー?なにー?全然聞こえなーい。いいのー?」

 閉めきった部屋から声を出しても、届かなかったようだ。

 俺はイヤイヤ身体を起こし、ドアを開けて怒鳴った。

 「今日は午後からだから!」

 バン、と勢いよくドアを閉め、俺はまた布団にもぐりこんだ。

ったく、うるさいこと、このうえない。

一瞬、でもこうやって叱ってくれる人間がいるありがたみに自己嫌悪を覚えたが、振り払う。

夏休みが終わってから三週間近く、俺はまともに授業に出席していない。というか学校に行ってない。休暇後のオリエンテーションと、後期の時間割を組むところまではやった。だが、そこでピタッと止まってしまった。

俺はこの先、どうするんだろうか。

 小三の頃に、友達に誘われミニバスに入った。その後、中学、高校とバスケしかやってこなかった。腹が立ってしょうがない時もあったが、それなりに楽しかったし、充実していたと思う。バスケ部を引退した後は、俺の頭でも入れそうな大学をいくつか受け、結局、中の下レベルの東京の私大に入学した。

 でも、じゃあNBAで活躍するようなバスケット選手になりたかったのか、その夢が叶わなくて、こんな海藻みたいに無気力になってしまったのか、と問われると、答えはノーだ。

悲しいことに、俺は夢を見られない皮肉な性格を持って生まれてきた。高校受験の頃、周りの奴が、「俺は絶対、全国に出るから高校は、強いとこにする」とか何とか宣言しているのを横で見、「素晴らしい、頑張れよ」と心の内で拍手し見送る、という役どころだった。「んじゃ、俺もその高校行くか」と言えるような性格であったら(しかも、それを実行できたら)、もう少し友達の数が多かったかもしれない。

 五年とか十年先に何をやっていたいかなんて、まるきり想像もつかなかった。

とりあえずどこかの会社で働かなきゃ生きていけねーしな、とは思う。けど、職種は営業が良いのかと訊かれれば、「まあ俺に出来そうなら・・」っていう具合だし、二十代後半には結婚していたいかと訊かれれば、「まあそれなりに・・」、自分の家や車は持ちたいか、「あ、車は欲しいかな」、子供は欲しいか、「一人ぐらいは・・」、出世して親や周りの友人を驚かせたいか、「そりゃ出来りゃ、おもしろいけど」・・・・・・・という弱弱しさ全開の、俺の回答。つまり俺は世間一般でいう、“つまらない人間”なのだ。何の個性もない男。臆病者(チキン)・・・かな。

 チャイムが聴こえた。ピンポーン。

 ヒーの、俺に対する新手の目覚ましか、嫌がらせか。

ちらと、そんな疑いが頭の中をかすめたが、時計に目を遣ると九時半を回っていた。さすがに、ヒーはもう学校だ。一時間目が終わろうとする時刻じゃないだろうか。

 俺は布団から這い出てスウェットに着替え、顔を洗った。

 昨日の晩に見た天気予報によると、今日は夕方から小雨が降るらしい。それまでに洗濯物を干し、乾かさなければいけない。

母さんが家を出た時に、家事は分担制と決めたが、実際は俺がほぼ一人でやっているようなものだ。ヒーや親父は、最初こそ手伝ってくれたものの(アイロン掛けや掃除機をかけるなど)、「今日あいりちゃんと遊んでくる」とか「悪いな。今日飲んでくるわ」とかで、徐々に回数が減っていった。逆に、俺は母さんが出て行った中三の頃から、家に居る割合が多くなった。高校時代、バスケ部の練習がある時は、それなりに忙しくて俺すらも家事をさぼりがちだったが(その時の家の状態は恐ろしいものだった)、受験シーズンや大学に入ってからは、家で過ごすことが多い。このご時世、こんなにまじめに専業主夫やってる大学生って俺くらいじゃないか。キャベツの千切りなんて、その辺の女子より上手いかもしれない。

ピンポーン。

チャイム音が少し苛立っているように聞こえる。

やべ。

「はいはい、今出ますよー」

親父の、伸びきってびろびろになったサンダルに足をつっかけ、ドアを勢いよく開けると、

「ハンコ、お願いしまーす」

帽子を深くかぶった、のっぽの配達員が頭を下げた。

示された欄に朱肉が付くようハンコを押しつけると、代わりに小さな包みが渡された。

「あざーす」

のっぽの彼が、速足でウチの門に停めてあるバイクに向かって去って行く。

目深にかぶった帽子の下にある顔がはっきり見えなかったことや、ほっそりした体系から、俺は『銀河鉄道』に登場するメーテルの男版みたいだと思った。何でそんなキャラクターがふいに出てきたのかというと、昨晩『人気アニメベスト100』というTV番組をヒーが観ていたからだ。

「さて」

包みを居間のテーブルに置いた俺は、冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップ一杯を飲みほした。

 受け取った時誰宛かな、と伝票のお届け先欄をチラ見した俺は、ひゅーと口笛を吹いてしまった。

 「なんとまあ」

 俺宛である。珍しい。いたずらじゃねぇだろうな。

包みを眺め、そこまで考えてしまった。しかし、それもそのはずだ。かろうじて年賀状を書いていたのは小学校まで。友人への手紙、なんて物を書いた記憶はここ最近間違いなくゼロである。誰かから、物が送られてくる予定はない。おまけに、ご依頼主の欄が【ご本人 様】となっている。

 「はて?」

 アマゾンで注文したGreeeenのCDは先月届いた。母さんだろうか。何か送ってくれたんだろうか。でも、もし母さんなら、ちゃんと伝票に自分の名前を書くはずだ。

 何はともあれ、開けてみることにした。ガムテープを剥がし、エアクッションをどけ、出てきたそれは、

 「鏡?」

 片手で持つにはちょっと危ないぐらいのそれは、シンプルな鏡だった。

 長方形で、カバーはアルミ製っぽい手触りだが、鏡自体の厚さは少しあるようで、そこが鏡の価値を高くしている、と俺は思った。

 しかし、それだけだ。柄もロゴも何も入っていない。無印良品とかで売っていそうだ。

 親父だろうか。日頃の仕事で疲れ、とうとう自分の名前を書いたつもりが、俺の名前だった、とか。

 今一度、他に何か入っていないかと梱包材をごそごそ掻き分けてみたが、やはり何もなかった。

 「あのさ、ちょっと訊きたいんだけど。差出人不明の宅配物っていたずらだと思う?」

 一人で考えても拉致があかなくなった俺は、その日の夜、ヤスに電話していた。

 「ん?・・何かされたのか?」

 「いや、鏡が届いてさ」

 「鏡?」

 「うん。あ、ちなみにおまえの住所は?」

 「は?」

 「うん、いや・・おまえ、間違えて俺ん家の住所書いた・・とか・・・ねぇよな?」

 受話器から無言の空気が漂ってくる。

家から誰かに電話する時、俺は携帯ではなく、固定電話を使うようにしている。通話代を少しでも浮かせるためだ。たまにはそんな主夫を誰かに褒めてもらいたい、とぼんやり思う。

 「・・・・てっちゃん」

 しばらくして、相手は低い声音で呼びかけた。

 「ぶっ。なんだよ、その呼び方」

 「わたくしの住所は、郵便マークの後、154の0022ざます。続きまして住所は、東京都世田谷区」

 「はいはいはい。わかったわかった。もういい。なんで、そこでオネエになるんだよ」

 ヤスの女声はおぞましいものだったので、これ以上続けさせると夢に出てきそうだと、俺は止めさせた。

 「てかさ、鏡ってどゆこと?鏡を宅配便で注文する奴なんかいんの?」

 だよな。

 「いや、そうなんだけど。でも、実際誰が注文したか分からん鏡が届いちゃってるわけよ」

 「配達屋が間違ったとか」

 「いや」

 確かに、俺の家の住所で合っている。だからおかしいんだ。

 「あ、母親じゃねぇの?」

 もちろん、可能性があるのは、それぐらいしか思いつかなかったので、ヤスにかける前、俺は弘美に電話したが否定された。大前提として、ヒーも親父も「知らない」と言っている。

 「ふーん。・・・まあちょっと様子見てみ?」

 「様子?」

 「そ」

 ヤスの声音が高くなる。

 「もしかしたら、一月遅れの、親父からの誕生日プレゼントかもやん」

 確かに俺の誕生日は九月三日だから、約一か月前だが、それはちょっと・・・。

 「あ。すまん。俺、今から香里奈のドラマ観なきゃならんのやわ」

 俺が言葉を返せないでいると、じゃ、と一方的に電話を切られた。

 もし、この鏡がヤスの家に届けられても、あいつは気にしなそうだな。

 仲良く泳いでいる三匹のグッピーが、相も変わらず同じ表情で、口をパクパクさせているのを横目に俺はそう思った。

 「てっちゃん、ここにあったチョコはー?食べちゃった?」

 ヒーが冷蔵庫の扉を開け放したまま、リビングのソファで寝転がっている俺に向かって叫んだ。

 「食べてねーよ。扉、閉めて」

 「うそだー。だって無いもん」

 返事になってない。・・・・あったら、あんた、叫ばないでしょうが。

 「だって、家に一日中いるの、てっちゃんだけだもん。チョコ食べれるもん」

 「おい。誰が、ヒーの、おニューのニット洗濯したの?誰が、毎日の晩飯作ってんの?」

 誰、を強調して言ってやる。この家は、俺が主夫をしているから上手く循環しているのだ。人を廃人みたいに言うな。

 「じゃあ、パパ?」

 “パパ”は、昨日から取材でニューヨークに行っている。明後日まで帰ってこない。そのチョコは昨日買ってきたものらしいので(ヒーが自慢げに話していた)、その可能性は無いだろう。

 「じゃあ、てっちゃんじゃん」

 眉を寄せながら、ヒーも俺のいるソファに、すとん、と腰かけた。

 「あ。またそれ、持ってるー」

 ヒーが指差したのは、例の差出人不明の鏡だ。

 あれからむしょうに気になって、俺は毎日必ず鏡を触る。朝昼晩、食後にだ。なんか薬みたいだが、ちょうど気になるタイミングが、料理を作り終え、食器洗いをし、テーブルを拭き終えたその頃だから仕方ない。

 「てっちゃんはー今ー。鏡、いぞんしょう」

 「うるさい」

 だって気になるじゃないか。しかも俺宛てだぞ?

 「ママー。お兄ちゃんの彼女は、かがみー」

 あんまりヒーがぎゃあぎゃあ騒ぐので、俺は自分の部屋に退散した。

 ベッドに横になって、再び俺は考える。

 鏡が送られてから一週間経つが、その間に何か変わったことは?

 間違いだったと、配達屋からの電話が鳴る。

 ノーだ。

 それは私宛てだと、本来の届け先相手から、苦情の連絡がある。

 ノーだ。

 実は私宛てだと、親父が恥ずかしげに告げる。

 ノーだ。

 終了。終了しました。

 ピーッというホイッスルが俺の頭の中で鳴った。結果は3-0で俺の完敗。

 結局今日も解決しなかった、ともやもやした気分でいると、階下からヒーの呼び声が聞こえた。

「ねぇねぇ、てっちゃん、てっちゃん!」

 廊下に出ると、ヒーは、階段下から俺を見上げて言った。

「わかったよ!チョコ食べた犯人。ヒーとママだった!昨日会った時に、二人で少し食べたの!」

「・・・・・・そうか」

俺が部屋に戻ろうとすると、ヒーは再び口を開いた。

「てっちゃんの彼女、元気?」

「・・・ああ。元気だよ」

さっきの鏡のことだ。悔しいが、今日も正体を突き止められなかった。

「ふふふ」

ニヤーッとヒーは笑い、

「てっちゃん、前よりかっこよくなったもんねー」

俺に向かってVサインを出した。

駅前の繁華街には、様々な服装を身にまとった人がいる。今が十月で夏と秋の中間だからだろうか。奥の横断歩道を渡っている中年の男は半袖短パン。その斜め前を歩いている俺と同じぐらいの若い女は、ニット帽にショートブーツ。暖房をかけているのか、近くの軽自動車に乗った中年の女はノースリーブにサングラス。

この街中の景色を絵に描いてみたら面白いかも。それをタイムカプセルに入れて、百年後に見た人間は何と言うだろうか。季節は分かるだろうか。

そんなことを考えながら、新宿駅の改札口に立っていると、ヤスの声が聞こえた。

「おまた」

「ホントだよ。今日夕飯おまえの奢り、な」

自分から十七時に待ち合わせしておいて、十七時四十分に来るとはいい度胸だ。俺はその辺の店を見たりして時間をつぶしたのだ。しかもさっき思い出したが、今日は牛肉の特売日だった。

「てつ、おまえさ」

不機嫌な俺を遮ってヤスは、俺の肩に手をかけた。嬉しそうな表情(かお)をしている。

「止めろ。ゲイになったんじゃないよな。俺は、そんな趣味は」

気持ち悪くなった俺が、ヤスの手を払いのけようとすると、

「おまえ、その方がいいよ!」

ヤスがドンと俺の背中を叩いた。

「痛って!」

「寝起きそのままの髪型だったもんな。なんか暗くて地味だったし」

本気でぶっ叩くな。顔をしかめている俺を無視して、マイペースにヤスは続ける。

「その服も!この前会った時は、草みたいな色のシャツ着てたのに」

おまえは母親かと突っ込みたくなったが、こいつが驚くのも無理はないだろう。

確かに、この前ヤスとボーリングした時に俺が着ていた服は、上が草色のT-シャツに下がベージュのカーゴパンツ、と何だか曖昧なものだった。特に、カーゴは中一ぐらいから着ているお古で、他人(ひと)からばれない程度に若干短く、よれよれしている。髪型も、耳までかかる髪を寝起きのまま、ちょっと手で梳くというやる気のないもので、あちこちにピョンピョン髪が飛び出していた、ような気がする。

ついこの間までの俺は、そんな恰好でも全然気にしていなかった。元々服には機能性だけを求めていて、ど派手な蛍光ピンクのシャツとか竜が描かれたジーパンでない、無難な物なら何でもいいと思っていたし、つい一年前まで通っていた高校には、制服という便利な物があり、ファッションセンスなんてなくてもやってこれたのだ。

そんな風だった俺が、今日は秋っぽく、木の葉が描かれた茶色のセーターに(クリーム色のシャツの襟を首のところから出しているのがポイント)、焦げ茶色のチノパン、黒のエナメル靴、とちょっとだけ今風になっている(と、俺は思う)。真っ黒な髪も茶色に染めてワックスで整えた。

ワカメがジャガイモになったと、ヤスが呟いた。

正確に言うと、例の鏡が届くまでと、届いてからの俺の変化である。あの鏡が届いてからというもの、俺は毎日ブツを眺めていた。気になるからだ。こういう時、俺は典型的なB型気質なんだろうと実感する。何か変わったことはないかと、鏡をひっくり返し、蓋を開け閉めし、やがて鏡を覗く俺の顔が映る。まあ、ひどかった。

ぼさぼさの髪、目立つところに虫歯がいくつも見える口(ゲームで寝不足のせいか口内炎もちらほら)、荒れているガサガサの唇、最近運動をしていないせいか、顎のところに肉が付いたようにも見える骨格。幸いなことに顔の造り自体はそこまで悪くない。(と、周りから言われる)しかし、今の俺の顔はどう見ても“イケメン”ではないだろう。

そんなものを三日も見ていたら嫌気がさした。明日はこれを見たくない。とは言え、気になって覗いてしまうだろうことは分かっている。

まず虫歯の治療から始めた。

「何でもっと早く来なかったの?」

近所にある馴染みの歯科医院に行くと、高齢のじいちゃん医師に訊かれ、そりゃあ、痛いの嫌なんです、と心の内で呟く。

「え?放っておいたら、もっとひどくなるに」

当たり前のことを説教される。じいちゃん医師は、俺の前歯二本と下の奥歯に一本ある、黒ずんだ歯を指差し、

「こりゃあ、試練だべ」

と、意地悪そうに俺を見て笑った。眼鏡の奥にある瞳が細くなった。

こうして、現在も俺の試練は続いている。

「なになに?彼女でもできたわけ?」

このこのーと、ヤスがニヤニヤしたが、正確には彼女ではなく、正体不明の鏡が登場して、今に至っている。

歯医者に行った四日後には床屋に行き、床屋に行った二日後に、俺は駅ビルで服やリップクリームを購入していた。今日も出がけに腹筋・背筋・腕立て伏せを済ませた。

 俺のこの行動は、女の子とデートする時、いかに自分をよく見せようか、というような男の欲の精神ではなく、もはや義務だった。

俺は、明日もあの鏡を見るだろう。いや、見なければならない。その際、不快なもの(自分の顔)を覗かなければいけない。不快なものは見たくない。むしろ、見せてはいけない。

ギリシャ神話に、湖に映った自分の顔に恋し、やがてそのまま湖から離れられず、死んでしまう男の話があった。それってすげーな、と俺はこの年になって感心していた。自分の顔なんて恋するどころか、見たくないのである。

「いや、普通そうでしょ」

ヤスが噴き出した。

「そうなんだけどね。なんつーか、あの神話の真の意味を俺、今理解した気がする」

「真の意味なんてあるのか?」

「いや、俺の考えなんだけどさ、あの話は、容姿は大事ですよって教えてるんだよ」

「大事っしょ」

「そうじゃなくてさ。主人公は自分の顔に恋して死んじゃうわけだろ。それって、言い換えれば、きれいなものって人を殺すぐらいの力があるってことだろ?つまり、自分の身なりを整えるってことは、それぐらいのパワーがあるんだよ。自分だけが満足するんじゃなくて、整った奴を見た周りの連中も何かと影響されるわけだ。それってすげーよな」

何だか当たり前のことを話していると思ったが、気にしなかった。これは、今までそんなことを考えたことのない俺にとって新たな発見だった。

「・・・・俺は今、おまえに影響されている」

「止めろ」

こいつは何年後かには、オネエになってないだろうか、と時々俺は不安になる。

「ターミネーターか何かの映画で、ありそうなセリフだろ」

平然とかわし、さて行きますかと、ヤスは向かいの通りにあるビルを指差した。今日はいつも渋谷だからと、場所を新宿に変更したのだ。やることはゲーセンの後、居酒屋に向かうだけだから、いつもと同じなのだが。

最近は日の入りが早くなってきている。俺の時計で十八時を回ったところだが、もうすっかり街はネオンで溢れている。上着がもう一枚欲しい気温だ。

歩道の脇で、歌手を目指しているのか、路上ライブを開いている若い女の歌声が聞こえてきた。

 桜が満開の季節 皆がお花見してる時期

 携帯のアドレス帳を空にして

 机の上に書き置き残して

 旅立った

 だって世界は広いから

 だって夢があったから

 典型的な田舎娘よ 怖いものなんてなかったの

振り返ればそこにいて 待っててくれる

振り返ればそこにいて 笑いかけてくれる

何年も過ぎたけれど 何か月も前の話だけど

 ごめんね 私は昔謝れなかった

 ありがとう 私は今生きていける

 You are forever for me

 冷たい雪が降った夜 皆が弾けている時に

 ベージュのトランク一つ持って

 毛皮のコートを上から押さえ

 立ち去った

 だって泣きたくなったから

 だって寂しくなったから

 六畳一間のアパートは 心を映した鏡そのもの

 振り返ればそこにいて 優しく包んでくれる

 振り返ればそこにいて 見守っててくれる

 何年も過ぎたけれど 何か月も前の話だけど

 ごめんね 私は昔謝れなかった

 ありがとう 私は今生きていける

 You are forever for me・・・・

二十二時頃、ヤスの携帯から<愛してるー>と大塚愛の『さくらんぼ』が流れ、出たのは俺だった。

「もしもし」

「もしもし。あの俺、康彦君の友達なんですけど、彼酔っぱらって寝ちゃって」

「え?そうなの?・・・・君、名前は?」

相手はいくつか年上の男だった。少し戸惑ったようだが、声は明るくはきはきしている。兄貴だろうか?

「関口哲也です。あの、康彦君のお兄さんですか?・・えっと俺、康彦君を家まで送ります。住所教えてもらえますか?」

どうすべきか迷った俺は、咄嗟にそう訊ねた。

すると男は、

「ああ。いい、いい。俺、今からそっち行くから」

店の場所を確認し、三十分後、俺達が居座っていた居酒屋に、本当にやって来た。

ひょろっとして、猫背だけど、背の高いハリネズミ。

真ん丸の瞳と、やや白い肌、笑いかけた顔は人の好さそうな感じだ。

ハリネズミは「どうも」と言い、ヤスの横に腰かけた。紺色のスーツと、ブルーのネクタイをしていた。仕事帰りなのだろうか。

俺達は、窓際にある四人掛けの席に座っているので、テーブルの上に伸びているヤスの腕と荷物をどければ、大人一人座れるくらいのスペースは確保できた。

男は、

「いや、悪いねぇ。康彦、いつもこうなの?」

と、手でおちょこを作り、呑む真似をした。

「いえ、あんまり無いんスけど、今日はたまたま」

「ふうん」

男は俺のことを頭から足元までざっと眺め、背広の内側をごそごそいじると、

「これ、俺の名刺。康彦の従兄弟で、東京都の役員です。今二十四だから、そこまで年変わんないでしょ」

男の名刺には、【東京都 生活文化局 広報広聴部広報課 高野祥二】と書いてあった。

「関口です」

俺が頭を下げると、祥二はいいよ、そのままで、と制し、廊下を歩いていた店員に向かってビール、と叫んだ。

「君が哲也君か」

「はい?」

初対面なのに祥二が不自然にニコニコしているので、俺は気になった。

「いやね。こいつがさ」

あ、俺達家近いからたまに呑むんよ、と祥二はヤスを顎でしゃくった。

「友達に、毎日家事やってる大学生専業主夫がいるって聴いてたから」

「・・・そんなこと言ってたんですか」

「それも、家庭の事情でホントは授業出たいけど、家事すっぽかして出れないとかで、それなりに苦労してる奴なんだ、とか言ってたから、へぇ、今日びそんなしっかりした大学生がいるのか、と」

「いえ・・・」

俺は引きつった笑顔を浮かべた。

ここ最近の欠席は、たんなるサボリだ。別に家事は関係ない。ノリかなんかで、ヤスは話のネタにでもしたのだろう。

それとも俺のことをそんな風に哀れんでいたのだろうか。と思ったが、次の言葉で打ち消された。

「しかも、そいつは、毎日同じ服を着て、毎日同じ靴を履いて、頭は丸刈りで、切る時床屋に行くのはもったいないから、自分でやってるんだと」

俺は一休さんか。

「いやね、俺さ、仕事で刊行してる新聞にちょっとした記事とか書いてるんだけどさ。もし、マジでそんな子ならね、一回話聴いてみたいって思ってね」

別に、かわいそう、頑張ってるねっていう励ましじゃなくてね、純粋に興味があって、と祥二は店員が持ってきたビールを半分ほど、一気に飲んだ。

完璧な野次馬じゃないか、と心の内で突っ込んだが、どちらにせよ俺は一休さんではない。

「あの」

スイマセン、俺、勤労学生じゃなくて、と言おうとしたら、

「ああ、いいの、いいの。そこまで考えてなかったから。でもさ、哲也君、思ってたよりずいぶん格好いいね。今風だし」

そう言って、祥二は皿に残っていた大根のサラダを口に含んだ。

「洗濯とか料理とかやってるのは、ホントなんだよね?」

「はい」

「ものは、試しなんだけどさ」

「はい」

「フードコーディネーターやってみない?」

「・・・・・・・フードコーディネーター?」

目を白黒させている俺に、実は、と祥二は続けた。

「市の新聞に載せる記事探してるのは本当でさ、一人面白いフードコーディネーターがいるんだけど、記事にするにはちょっと弱いんだよねぇ。そこで、哲也君が良ければ、そのコーディネーターさんの弟子になるっていう体験談はどうかなって」

蝶野さんっていうんだけど、と名刺入れから一枚を出してテーブルに置く。

【フードコーディネーター 蝶野香苗】。

「でも、俺、知識とか何もないですよ」

いきなりそんなことを言われても困る。ヤスは相変わらず寝てるし。

出された名刺を一瞥した後、俺がそう言うと、祥二は手をひらひら振った。

「ああ、いいの、いいの。ちょっと体験してみるってことだし」

どうかな、と俺の目をまっすぐ見て訊ねた。

「・・・その、蝶野さんは、俺でいいんですか?」

ちょっと面白そうだなという気にはなってきたが、祥二は何だか適当な気がしたので、不安になり、一応訊いておく。

「うん、うん。我が市にも王子が一人欲しいなと思ってたんだよ。ハンカチ王子とか最近色々いるじゃん。草食男子とか」

宣伝ね。要は広報に俺を使いたい、ということだった。

「クラブとかサークルとか忙しいんだっけ?あ、バスケだよね」

「いえ、今は幽霊部員です」

「バイトは?やってる?」

「いえ、今はしてないです」

「何かやってたの?」

「えと、八月までガソリンスタンドでやってました」

「今、何か夢中になってるものないよね?」

「・・・・・・・まあ、ないです。多分」

「じゃあ、どうかな?突然で悪いんだけど。暇つぶしにでも」

何だかここまであからさまに利用されるのも、祥二のちょっと偉そうな態度も少し嫌だったが(それに俺は今、鏡にハマっている・・・・・これは言えないけど)、惹かれたのは事実だ。

「哲也君、フードコーディネーターみたいな自由に動ける仕事、合うと思うんだけどな」

自分でお店のメニュー考えたり、材料選んで買いつけたり。食品会社の新商品考えたり。フードコーディネーターっていうのは、食全般に関する社会的な先生みたいなもんだ。祥二はさらに続けた。

「・・・・何でそう思うんですか?」

「何で授業出ないの?」

逆に訊き返され、俺は押し黙った。窓の下方を流れていく、赤や黄色の車のライトに目を遣る。

他人に話せるような立派な理由なんて、そもそも存在しないのだ。毎週課題が出される理系学科や、ほぼ高校の延長のような福祉系学科でもない。俺が所属する経済学科は、出席と、たまにある小テストやレポート、試験でまあまあの点が取れれば、単位は楽に取れる。もっと言えば、俺みたいに一学期まるまるサボっても、来年また取り直せばいいのだ。また、それが出来る学科でもある。

「何、勉強してるの?」

「経済です」

「じゃあ公務員じゃなくて、一般企業かな?」

「・・・・・はい」

 「それとも、他に?」

 俺が一瞬、返事に躊躇したことに気づき、祥二は訊ねた。

 「・・・・大したことじゃないんですけど」

 よくある話だと思う。

 俺は大学に入学して一息ついた頃、家の近所にあるガソリンスタンドでアルバイトを始めた。車は嫌いじゃないし、職場の人は皆良い人だったが、一人だけ虫の好かない男がいた。

 小島、というその男は支店の副店長で、正社員だった。

 その男は、あまりコミュニュケーションを取るのが上手くないのか、常に怒ったような顔をし、誰かに話しかける時は百パーセント小言から始まった。当然のことだが、皆、その男を敬遠するようになり、時々小島の悪口を言って憂さ晴らしをした。

 もちろん俺自身も、用の無い時は小島に進んで話しかけようとはしなかったけど、たまたまその日、仕事帰りに声が聞こえたので、窓から自販機が置いてある、屋根付きの休憩スペースを覗いてみた。彼は、電話に向かって必死に頭を下げていた。

 そして、電話を切った後は、ホウキとチリトリを持ち、休憩室の掃除を始めた。

 その光景を俺は凝視していた。

 あの偉そうな副店長が。

 休憩室の掃除なんて、ゴミ箱のゴミは回収するが、モップをかけてすぐ終わらせていた。

 小島はゴミを集めた後、自販機の表面を雑巾掛けしている。

 その何日か前に、バイト仲間の高校生のギャルが、帰り際、自分の持ってきたペットボトルを休憩室のテーブルに置き忘れ、そのまま放置されたそれを客に注意されるという不始末があった。

 それからだろうか。小島が丁寧に掃除し直すようになったのは。

 俺はしばらくの間、小島の姿を見ていた。

 翌日の出勤後、俺は小島に挨拶したが、いつも通りのムスッとした表情で、今日は常連の長山さんが来るだろうから丁寧にね、と、つっけんどんに言い放った。

 小島に話しかけようと、近くに来た店長も俺に頷き、その後、彼に見えないように小さく肩をすくめた。やれやれ。

 その後しばらく様子を見たが、皆が帰った後、小島が一人で休憩室を掃除していることを知っているのは、俺だけだった。

 「なんか、別に同情した訳じゃないんですけど、こんなもんなのかなって。もちろん、皆から悪く言われたりするのは、その副店長も悪いし。ただ、何ていうか。やっぱり社員って上に立たなきゃいけないじゃないですか。だから、小島ほどにはならなくても、俺も陰で、こそこそ言われるような立場になるかもしれないし」

 小島は、車をいじったりカーレースを見るのが好きで、今の会社で働きだした、と俺は噂で聞いた。上下関係がない会社は存在しない。誰かが上に立ってまとめ、誰かが下で支えるのだ。小島には、車がある。常連客の車種はすぐに答えられるし、部品についても詳しい。店長にやれやれ、と肩をすくめられても、バイトに陰口を言われても、小島には好きなものがある。

 俺は似たような立場になった時、小島よりもっとひどい立場になった時に、平然と続けていられるだろうか。

 そう考えた時、俺の中にあった風船のようなものがしぼんだ。

 「こんなんでいいんですかね、俺」

 なんとなく大学に進学し、なんとなく経済学科を選んだ。昔からやっているバスケの延長でサークルに入った。自分から進んでやっているものは、母さんがいなくなって以降、必要に迫られた家事ぐらいだ。

 しっかりした人間は、もうとっくに自分の夢や理想に近づくべく、動き始めているだろう。今までずっと見て見ぬふりをしてきた。でも、それを真面目に考えなきゃいけない時なんだ。俺は心のどこかで、焦ってるんだ。いや、初めて焦り出したんだ。

「いんじゃないの?」

結構真面目な話をしたつもりなのに、祥二はあっけからんと言った。

「まだまだ若いんだし。その年で無理にやりたいこと見つけるとか、会社なんて分からないよ、皆。それより、俺はその時掴んだチャンスを逃さないことの方が大事だと思うけど」

側を早歩きで過ぎ去っていく店員に、枝豆、と叫んで、祥二はこっちに向き直った。

「四十台になっても五十台になっても、やりたいことが見つけられない人間なんてたくさんいる。それに、人って変わるしね。エリートの道進んで幸せな人間もいれば、不幸せな人間もいる。貧乏でも幸せな人間もいれば、毎日泣いている奴もいる。その時々でいくらでも変わるんだから、チャンスは逃さないようにした方がいい。それで失敗したって良い経験になる」

「俺は哲也君に、たまたま惹かれた。話を聴いていて、どこにでもいそうな学生だと思ったが、顔は良い。その服も、なかなかい良い。哲也君の雰囲気も薄暗いバーなんかだと女にモテそうだ。“ミステリアスなイケメンフードコーディネーター”。・・・・ちょっと長すぎるな。別の名前を考えよう。料理をするイケメン芸能人は増えてきたけど、店を食べ歩いたり、メニュー開発をするフードコーディネーターの分野では、まだいない。哲也君のイメージにも合うと思うんだけどな」

 前半は、まあまあ良いことを言っているが、後半は完全にセールスだ。この男の偉そうな態度も気に食わない。けれど、ここまで外見で褒められると気分がいい。

 俺とヤスは、普段、こういう品のある居酒屋の四人掛けで酒を呑んだりしない。半分、屋外みたいな焼き鳥屋や、夏でもたまにある、おでんの屋台だ。

 ヤスが今日場所を新宿にしようと言ったのは、この男に会わせる為だったんだろうか。

 俺は首を縦にふり、名刺をチノパンのポケットに押し込んだ。

南青山の骨董通りにある、知る人ぞ知るカジュアルレストランは、歩道脇の狭い階段を下りたところにあった。

 店内はピンクや紫色の間接照明で、薄暗く、ちょっと怪しい雰囲気を醸し出している。

 カメラやマイクなどの機材を持った人間がそこかしこで、慌ただしく走り回っている。

 今日の主役は俺と、朝のニュース番組の最後にある、料理コーナー担当の食育アドバイザーだ。この店を紹介しつつ、今旬の春菊を使った料理を食べ、春菊の由来を雑談する。

二年前、ヤスの従兄弟、祥二に紹介してもらったフードコーディネーター蝶野の元で、俺は現在(いま)も修行を続けている。

何ていうか変な女だ。紫の眼鏡をかけて、いつも水玉のワンピースを着、擬音語をやたら使う。ちょっとうざいと思うぐらい、使う。そして大食いだ。正直、人気の女子アナみたいな風貌を期待していた俺はショックを受けたが、彼女の料理の腕は確かだし、知っている店の数や食べ物の歴史、ワイン、飲食店の経営戦略にも詳しい。二年前に比べて俺の料理の腕や知識は断然深まったと思う。

 一体どこが魅力だったのかさっぱり分からないが、祥二の考えた企画〝世田谷区の、イケメンフードコーディネーター誕生〟(蝶野はおまけになっている)はその年の十二月の頭、記事の一面にでかでかと紹介された。都の新聞に載ると話題になり、町を歩くと近所のおばちゃん達から手を振られるようになってしまった。人に見られている、というのが理由か自分でも分かっていないが、俺はまた大学にきちんと通うようになった。

 講義そのものには、以前とあまりかわらない態度で出ているし、相変わらずサークルも幽霊部員のままだが、多分俺は今、充実している。このまま、これで食べていくと決めた訳でもないし、いつまでこんな取材が来るのかも分からないけど、飽きない。新しい店を発見することも。店の主人と顔見知りになることも。山に出向き、山菜を自分で収穫したことも。ヒーが、俺に対抗心を出して、家事をやるようになったことも。親父が家に帰って来る時間が早くなり、俺達と一緒に野球観戦するようになったことも。母さんが弾んだ声で、俺が載った記事を受話器越しに読み上げることも。

 そして不思議なことに、俺は鏡に飽きたらしい。飽きたというより、以前より気にしないようになった、というのが正しいのかもしれない。蝶野の元で勉強していると、あっという間に日が暮れてしまうのだ。家に帰って着て、夕飯を作って、風呂を沸かして、テレビをちょっと見ようものなら、もう夜中になっている。昼間は大学もある。

「アー、アー、音声テスト入ります」

 俺がぼけっとしている間に、着々と準備が済んでいく。

「スタンバイ、いいスかー?」

バタバタ。

「立ち位置いいー?」

ガヤガヤ。

「はい、本番いきまーす。三、二、一、キュー」

若手の男性アナウンサーが俺達を示しながらカメラに向かって、話し出した。

 「今日は今話題の、和やかイケメンフードコーディネーター、関口哲也さんと、朝のモーニングキッチンでお馴染み、相沢洋子さんに来て頂きました」

 指示されたテーブル席に座り、ふとカメラの奥に視線を向けると、<間を取って!オーナーがまだ来れない!>とスケッチブックに赤マジックで警告が出ていた。何人ものスタッフが、ひそひそ声で対策を講じている。本来は、ここで店の主人と一言話すという流れなのだ。男性アナウンサーもそれを知っていたのか、急遽俺達にマイクを向けてくる。

 ちょっと、ちょっと。

 いきなり振られても困る。だってこれ、全国放送だぞ。

 何回か新聞や雑誌の取材は受けたけど、テレビは初だ。

 「ええ」

 アナウンサーも緊張したのか、目を瞬かせながら天井を見上げている。

 「この店は、このような様々な色のライトを、お客さんの好みに合わせてチョイスできるんですけど、・・・・今は、ちょっと怪しげな、ドラマで麻薬か何かを取引するようなシーンにぴったりの、不思議な空間を店内に生み出しています」

 苦し紛れなのが、側にいる俺にも手に取るように分かった。この人のおかげで、逆に俺は少し落ち着いた。

 「・・・さて、そういえば、お二人はちょっと幻想的な、不思議な体験をしたことがありますか?」

 ああ、助かった。これなら言える。マイクを向けられ、口を開いた。

 「ありますよ。体験じゃなくて、今も続いてますけどね」

 鏡は、今も俺の部屋にある。俺は毎日、自分を見ている。

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